関の扉せきのと
常磐津 劇神仙 述 本名題『積恋雪関扉』 作曲者・初演年不詳

逢坂の関。関守関兵衛は、実は天下を望む大伴黒主。良峯宗貞と小町姫の恋物語のうちに黒主の企みが露れ、下の巻では小町桜の精・墨染が遊女の姿で現れて黒主と渡り合う。常磐津の代表曲。原典は上下二巻に分けて載せるが、一曲なのでここではひと続きにした。
あらすじ
逢坂の関。関守の関兵衛が柴を刈る傍らで、良峯宗貞が琴を弾く。そこへ三井寺へ参ると偽って小町姫が訪れ、関を通してほしいと願う。関兵衛は手形がないと拒むが、宗貞のとりなしで通す。小町と宗貞は再会を喜び、関兵衛に請われて馴れそめの恋を語る。大内山の月の宴に垣間見た日から百夜通いの誓いまで——だが先帝の崩御に恋も無常と変わり、宗貞は位を辞して布留の寺に籠もった。関兵衛は七夕祭になぞらえて二人の仲を取り持とうとするが、そのはずみに懐から割符を落とす。やがて白尾の鷹が血染めの片袖を運び、弟安貞が兄に代わって死んだと知れる。土中から現れた八声の名鏡と、二つの割符を合わせれば「鏡山」の文字。宗貞は関守の正体を怪しみ、小町を篁のもとへ走らせる。——夜、宗貞は血染めの片袖を琴の下に隠して奥へ入る。一人になった関兵衛は酒に酔い、盃に映る星に己の望みを語る。今宵こそ小町桜を伐って護摩木とし、班足太子の塚の神を祭れば大願成就と、斧を研ぎ立てる。試しに琴を斬れば中から血染めの片袖が出、懐の勘合の印はひとりでに桜の梢へ飛び去る。桜を伐ろうとすれば目がくらみ、あとへたじろぐ。そこへ深雪に積もる桜の影から、墨染と名のる遊女が現れる。撞木町から逢いたさに来たという女に、関兵衛は有頂天になり、廓の駆け引きを語らせる。忍び頭巾の格子先から床の上まで、口舌に痴話に踊り舞ううち、落ちた袖を墨染が取り上げて泣く。それは弟の血染めの片袖であった。関兵衛は睨みつけて素性を問い、みずから中納言家持の嫡孫、天下を望む大伴の黒主と名のる。女もまた、小町桜の精魂であり、五位之助安貞と契った身だと明かす。わが本性の桜木を邪慳の斧にかけたその報いを思い知れ——桜を笞に打ちかかる。黒主は斧を取り直して打ちかかるが、精霊は身も軽くひらりひらりと吹雪の桜のように飛びかい、霞隠れ、朧夜の水の月影のように手にも取られない。今こそ人界の輪廻を離れて根に帰るしるしを見よ、という声ばかりを残して形は消え、桜木に帰り花が咲く。墨染の小町桜として世に広く、あまねく筆に書き残されたのであった。
詞章と現代語訳
待得て今ぞ時にあふあふ、関路をさして急がん、むかしむかし往昔噺の其様に、しばしば似たる柴刈も、関屋守る身の片手業、柴を束ねてかいやり捨て、五尺いよこの手拭、五尺手拭中そめたしよんがへ
待ち得て今ぞ時に逢う。関路をさして急ごう。むかしむかしの昔話のように、しばしばに似た柴刈りも、関屋を守る身の片手わざ。柴を束ねてかいやり捨て、五尺いよこの手拭、五尺手拭の中染めた——しょんがえ。
樵夫の歌も世を厭ふ、身につまされて偲ばしく、忘るる心に取敢ず、手馴れし琴を調べける、恨めしや我縁
樵夫の歌も世を厭うわが身につまされて偲ばしく、忘れようとする心にとりあえず、手馴れた琴を調べる。恨めしや、わが縁よ。
ハテしほらしい音色ぢやな
「はて、しおらしい音色じゃな」
斯る山路の関扉に、さしも妙なる爪音を、聞に付ても身の上を、思ひ出せば錦の帷帳、玉の台に人となり、翡翠の簪飾妍やかに、ある人は初花の
このような山路の関の扉で、これほど妙なる爪音を聞くにつけても、わが身の上を思い出す。錦の帷帳、玉の台に人となり、翡翠の簪もあでやかに——ある人は初花の。
雨に綻ぶ化粧とは、女子をのぼす懸言詞
雨に綻ぶ化粧とは、女をのぼせさせる掛けことばよ。
今は夫には引替て、草の衣や袖せばき、姿を隠す蓑笠や
今はそれに引きかえて、草の衣は袖も狭く、姿を隠す蓑笠よ。
杖を力にたどたどと関扉近く歩み寄る
杖を力にたどたどと、関の扉近くへ歩み寄る。
宗貞琴を鎮め給ひ、雪降れば冬籠りせる草も木も、春に知られぬ花ぞ咲ける、何と関兵衛どうも言れぬ景色ではないか
宗貞は琴を鎮めて——「雪降れば冬籠りせる草も木も、春に知られぬ花ぞ咲きける。何と関兵衛、どうも言いようのない景色ではないか」
成程左様で御座ります、此雪を肴に一つたべたらよう御座りませう、と話の中に小町姫、関の外面に立休らひ、申しちと御案内申しませう
「なるほど左様でございます。この雪を肴に一つやったらようございましょう」——と話すうちに、小町姫が関の外に立ち休らい、「もし、ちとご案内申しましょう」
あれ関扉に誰やら案内があるぞや
「あれ、関の扉に誰やら案内を乞う者があるぞや」
何案内とは何者ぢやと関兵衛が、関扉開いて
「何、案内とは何者じゃ」と関兵衛が関の扉を開いて。
アア貴様は女ぢやな、此夕暮に供を連ず只一人、此関へは何故来たのぢや
「ああ、貴様は女じゃな。この夕暮れに供も連れずただ一人、この関へは何ゆえ来たのじゃ」
アイ私や三井寺へ参詣の者、関を通して下さんせ
「あい、私は三井寺へ参詣の者。関を通してくださんせ」
成程通りたくば通してもやらうが手形があるか、其様なものは御座んせぬはいなア
「なるほど、通りたくば通してもやろうが、手形があるか」——「そのようなものはございませぬわいなあ」
手形がなくば通す事はならんならん
「手形がなくば通すことはならん、ならん」
コレ其様に言ずとも、此大雪で嘸難義であらう、了簡して通してやりやいのう
「これ、そのように言わずとも。この大雪でさぞ難儀であろう。了簡して通してやりやいのう」
さう仰有れば通してもやりますが、これ女中そんなら俺が尋ねる事があるが、夫を一々答へるか
「そうおっしゃれば通してもやりますが。これ女中、そんなら俺が尋ねることがあるが、それを一々答えるか」
成程私が覚えて居ることなら、何なりと答へませうわいなア
「なるほど、私が覚えていることなら何なりと答えましょうわいなあ」
先づ第一合点がいかぬ
「まず第一、合点がいかぬ」
そりやマア何がへ
「そりゃまあ、何がえ」
サア其訳は
「さあ、そのわけは」
一体きさまの風俗は、花にも勝る風姿
「一体きさまの姿は、花にも勝る風姿」
桂の粉黛青うして、又とあるまい
「桂の粉黛は青うして、またとあるまい」
お姿を、お公卿さん方お屋敷さん、多くの中で見初たら、只は通さぬ筈なれど、其処を其儘捨置くは
「そのお姿を、お公卿さん方お屋敷さん、多くの中で見初めたら、ただでは通さぬはずなれど、そこをそのまま捨て置くのは」
生野暮薄鈍情なし苦なしを見るやうに、悪洒落いふたり大通仕打もあるまいが、何ういふ理屈か気が知れぬきがしれぬ
生野暮の薄のろ、情なし苦なしを見るように。悪洒落を言ったり大通ぶった仕打ちもあるまいが、どういう理屈か気が知れぬ、気が知れぬ。
いやとよ我は恋衣、早脱捨てて烏羽玉の、墨も袂の垂乳の、後の世願ふ菩提心、褐食の身にてさふらふぞや
「いやとよ、われは恋衣を早や脱ぎ捨てて、ぬばたまの墨染の袂。垂乳の母の後の世を願う菩提心、乞食の身にてそうろうぞや」
ホウ言葉は殊勝に聞ゆれど、菩提の道に入りながら、何故黒髪を剃ぬのぢや
「ほう、言葉は殊勝に聞こえるが、菩提の道に入りながら、なぜ黒髪を剃らぬのじゃ」
姿は世をも厭はばこそ、心で厭ふて居るわいな
「姿で世を厭うのではなく、心で厭うておるわいな」
シテ煩悩とは
「して、煩悩とは」
菩提なり
「菩提なり」
提婆が悪も
「提婆が悪も」
観音の慈悲
「観音の慈悲」
又槃得が愚痴も文珠の智恵
「また槃特の愚痴も文殊の智恵」
智恵も容貌も取なりも
智恵も器量も身なりも。
類ひなき身を百歳の、姥になるまで独寐は、惜い事では
類いない身を、百歳の姥になるまで独り寝とは惜しいことでは。
ないかいな、お目にかかるも初深雪、凌ぐ小蔭もいとしやと、関の扉を押開き
ないかいな。お目にかかるも初深雪、凌ぐ小蔭もいとしやと、関の扉を押し開き。
こちへ
「こちらへ」
こちへと通しける
「こちらへ」と通したのであった。
小町は見るより、マアお前は宗貞様、お懐かしやと取付いて、暫し涙にくれ居たる
小町は見るより「まあ、お前は宗貞さま。お懐かしや」と取りついて、しばし涙にくれていた。
是はマア思ひもよらぬ、此処へはどうして御座つたぞ
「これはまあ思いもよらぬ。ここへはどうしておいでになった」
さればいなア、いつぞや布留の御寺にて、お別れ申した其後、王子様の横恋慕、是非に入内とある故に、舘を出て此様に、身を忍んで居りまするはいわ
「さればいなあ。いつぞや布留の御寺でお別れ申したその後、王子さまの横恋慕。是非に入内せよとあるゆえ、舘を出てこのように身を忍んでおりますわいな」
夫は嘸憂き艱難をさつしやれたであらうのう、某とても同じ身の上、コレ此所は先帝の御陵故、移し置きたる御愛樹のあの桜非生のものとは言ながら、崩御を悲しむ余りにや、薄墨色に咲たるを、そなたの歌の徳によつて、盛りの色を増たれば、小町桜と言伝ふ、其名に愛でて少将も、一木の元に侘住居、思へば果敢ない縁ぢやな
「それはさぞ憂き艱難をなされたであろうのう。それがしとても同じ身の上。これ、ここは先帝の御陵ゆえ、移し置いた御愛樹のあの桜。心なきものとは言いながら、崩御を悲しむあまりか薄墨色に咲いたのを、そなたの歌の徳によって盛りの色を増したので、小町桜と言い伝える。その名を愛でて少将のわたしも、一木のもとに侘び住まい。思えばはかない縁じゃな」
始終を聞いて関守は、そんならあなたは小町様で御座りましたか、コレハコレハ少将様にも、嘸お喜びで御座りませう、是からは打寛ろぎで、其馴初めの恋話、お聞かせなされて下さりませぬか
始終を聞いて関守は、「そんなら、あなたは小町さまでございましたか。これはこれは、少将さまもさぞお喜びでございましょう。これからは打ち寛いで、その馴れそめの恋話をお聞かせくださりませぬか」
イヤ此身になつて、今更語るも面伏せ
「いや、この身になって今さら語るも面伏せ」
左は言迷ひの雲霧を、懺悔に晴すも悟りの道
「さは言え、迷いの雲霧を懺悔に晴らすのも悟りの道」
そんなら恋の世語りを
「そんなら、恋の世語りを」
早う聞きたい所望ぢやしよまうぢや
「早う聞きたい。所望じゃ、所望じゃ」
其初恋は去年の秋、大内山の月の宴、其折からに垣間見て、思ひに堪かね一筆と、書初めしより旦暮の
その初恋は去年の秋、大内山の月の宴。その折から垣間見て、思いに堪えかね一筆と書きそめてより、明け暮れの。
文玉章の数々は、何と覚えがあらうがの
文、玉章の数々は——何と、覚えがあろうがの。
其水茎のこまごまと偽りならぬ真実を、聞嬉しさも押包み、恋焦れても母さんに、一旦誓ひを立し身の、色に心は引れじと、思ひ返していなせをも、言ぬは言に真蘇枋の芒
その水茎こまごまと、偽りならぬ真実を聞く嬉しさも押し包み。恋焦がれても、母さんに一旦誓いを立てた身。色に心は引かれまいと思い返して、諾も否も言わぬ——言わぬは言うにまさる、真蘇枋の芒。
小野とは言じ恋草に、百夜通ふて誠を見せて、忍び俥の榻に行く、やつし姿の夜の道、いつか思ひは山城の、小幡の里に馬はあれども
小野とは言うまい、恋草に百夜通うて誠を見せる。忍び車の榻に印をつけて通う、やつし姿の夜の道。いつしか思いは山城の、小幡の里に馬はあれども。
さつても実ぢや真実ぢや、一里あまりわくせきと、そんなら駕籠にも乗ずにか
「さても実じゃ、真実じゃ。一里あまりをわくせきと。そんなら駕籠にも乗らずにか」
君を思へば徒跣足
君を思えば徒歩、跣で。
月にも行き
月にも行き。
闇にも行き
闇にも行き。
さて雨の夜に行く思ひ蟋蟀は我恋を思切れとの辻占も祝ひ直して
さて、雨の夜に行く思い。きりぎりすの声は、わが恋を思い切れとの辻占かと聞くが、それも祝い直して。
行く夜の数も九十九夜、今は一夜ぞ嬉しやと、待日になれば先帝の、崩御と聞に身の上の
通う夜の数も九十九夜。今は一夜ぞ嬉しやと待つ日になれば、先帝の崩御と聞いて、身の上の。
恋も無常と立かはる、君の菩提を葬はんと、位を辞していそのかみ、布留の御寺に終夜、御経読誦の折も折
恋も無常と立ちかわる。君の菩提を弔おうと位を辞して、いそのかみ布留の御寺に夜もすがら、御経読誦の折も折。
私も其時母上の、後世祈る志心、一夜籠りに思はずも、お顔を見るよりぞつとして身にこたへ、後生菩提も何処へやら、捨て二人が稲舟のいなにはあらぬ嬉しさに、立し誓ひは破られずと、つひ其儘のうき別れ、思へば果敢なき縁ぞと、かこつ涙の流れては、関の清水や勝るらん
「私もその時、母上の後世を祈る志で一夜籠りをしておりました。思わずもお顔を見るよりぞっとして身にこたえ、後生菩提もどこへやら」——捨てて二人が稲舟の、否にはあらぬ嬉しさに。だが立てた誓いは破られぬと、ついそのままの憂き別れ。思えばはかない縁ぞと、かこつ涙の流れては、関の清水にも勝るであろう。
関守側から、悲しいはお道理おだうり、何も彼も是からは、此関兵衛が飲込んで居りまする
関守は側から、「悲しいはお道理、お道理。何もかもこれからは、この関兵衛が飲み込んでおりまする」
そんならお前に頼むぞへ
「そんなら、お前に頼むぞえ」
サアそれで定まつたと言ものだ、媒人は此関兵衛、四海波静かにでもあるまい、ハテどうしたものであらうなア、アア夫それ此関守には毎年七夕祭が、其祭になぞらへて、あなたは牽牛お前は織女
「さあ、それで定まったというものだ。媒人はこの関兵衛。四海波静かに、でもあるまい。はて、どうしたものであろうなあ。ああ、それそれ。この関守には毎年七夕祭がある。その祭になぞらえて、あなたは牽牛、お前は織女」
ヲヲそれそれ秋と冬とは変れども、年に一夜の天の川
「おお、それそれ。秋と冬とは変われども、年に一夜の天の川」
とわたる星になぞらへて、七夕祭にかからうか
と渡る星になぞらえて、七夕祭にかかろうか。
実に織姫の簪の袖、秋の錦をおり機の、中に総の字をあらはし、砧の上へゑんれつの声、頻りに暇なき機の音、きりはたりてうてう、賎が手業やことわざの、内に関兵衛懐中より、落せし割符を小町姫、手早くとれば
げに織姫の簪の袖、秋の錦を織る機の中に総の字をあらわし、砧の上へえんれつの声。しきりに暇なき機の音、きりはたりちょうちょう。賤が手わざやことわざの——そのうちに関兵衛が懐から落とした割符を、小町姫が手早く取れば。
ヤそれは
「や、それは」
それそれそれそれそつこでせい
それそれそれ、そっこでせい。
恋ぢやあるもの渡らでおこか、渡らば爾して斯してと、目褄隙間を何白河の、橋を渡ろか船にしよか、橋と船とは恋の仲立ほんにへ
恋じゃあるもの、渡らずにおこうか。渡らばそうしてこうしてと、目褄も隙間も何のその——白河の橋を渡ろうか、船にしようか。橋と船とは恋の仲立ち、ほんにえ。
中々に初めより馴れずば物も思はじ、わすれは草の名にあれど、忍ぶは人の面影おもかげ、たまに逢瀬の七夕もせめて一夜あるものを、一期添れぬうき恋は、つれない此身ばかりにて、流涕こがれ泣給ふ
なまじ初めから馴れなければ物も思うまいに。忘れ草は草の名にあれど、忍ぶは人の面影、面影。たまの逢瀬の七夕にさえ、せめて一夜はあるものを。一生添えぬ憂き恋は、つれないこの身ばかりと、涙を流して焦がれ泣かれる。
アアこれこれコリヤどうで御座ります、其お歎きを見まい為、今宵しつぽり露霜に、色づく紅葉の橋渡し、所詮媒人は宵の程、われ等は奥で酒の燗、長居はおそれと走り行く
「ああこれこれ、こりゃどうでございます。そのお歎きを見まいため、今宵しっぽり露霜に色づく紅葉の橋渡し。所詮、媒人は宵のほど。われらは奥で酒の燗。長居は恐れ」と走ってゆく。
折しも西の雲間より、真一文字に白尾の鷹、彼処の石にとまりしを
折しも西の雲間から、真一文字に白尾の鷹が飛び来て、かしこの石にとまったのを。
宗貞見るより、ヤアあれは正しくせいらいの鷹、足に何やら付たるは、ハテ怪しやと立寄り見れば、片袖に血汐を以て、二子乗舟としるせしは、往昔嬰のこうしじゆが兄に代つて死したる詩詠、扨は弟安貞は
宗貞は見るより、「やあ、あれは正しく飼い馴らした鷹。足に何やら付けてあるのは、はて怪しや」と立ち寄って見れば、片袖に血潮をもって「二子乗舟」と記してある。昔、衛の公子が兄に代わって死んだという詩の題。「さては弟の安貞は」
お前に代つてお果なされましたといなア、不憫の者の身の果と、歎きの内に片袖を、石上にとり落せば、血潮の汚れに鶏の声、宗貞耳をそばだてて、ハテ合点の行かぬ鶏の声、仔細ぞあらんと見廻して、石押退ければ思はずも、見れば土中に怪しの鏡
「お前に代わってお果てなされましたといなあ」——不憫な者の身の果てと歎くうちに、片袖を石の上に取り落とせば、血潮の汚れに鶏の声。宗貞は耳をそばだて、「はて、合点のゆかぬ鶏の声。仔細があろう」と見まわして石を押しのければ、思いがけず土中に怪しい鏡。
小町は駆寄り手に取上げ、コレ此鏡の裏に、生るが如き鶏の形、血汐の汚れに声をあげしは、紛ふかたなき大友家の重宝八声の名鏡、篁さまよりお渡しありし此割符と、最前関守が落せし割符、これかう合せて見るときは
小町は駆け寄って手に取り上げ、「これ、この鏡の裏に生けるがごとき鶏の形。血潮の汚れに声をあげたのは、紛れもなく大友家の重宝、八声の名鏡。篁さまよりお渡しのあったこの割符と、先ほど関守が落とした割符。これをこう合わせて見るときは」
鏡山といふ文字、何にもせよ合点の行かぬはあの関守、あとに残りてなほも様子を窺はん、そなたは是より立帰り、狼煙を相図に関の四方を圍まれよと、篁へ伝へてたも
「鏡山という文字。何にもせよ合点のゆかぬはあの関守。わたしはあとに残ってなお様子を窺おう。そなたはこれより立ち帰り、狼煙を合図に関の四方を囲まれよと、篁へ伝えてたも」
そんなら私は
「そんなら私は」
小町殿
「小町どの」
宗貞様
「宗貞さま」
片時も早うと宗貞の、言葉にまかせ小町姫、恋しき人に別れても、又逢坂の山伝ひ、雪踏分けて
片時も早うと宗貞の言葉にまかせ、小町姫は恋しい人に別れても、また逢う——その逢坂の山伝い、雪を踏み分けて。
急ぎ行く
急ぎ行く。
今宵も既に降頻る、雪の翼の羽風をも、音静やかに更てゆく、まさに先帝御なきあとを、とひ奉る後夜の読経、尚も回向を忘れもやらず、誦ずるも弟安貞と、心許りの手向草
今宵もすでに降りしきる雪。その翼の羽風さえ音静かに、夜は更けてゆく。まさしく先帝の御なきあとを弔い奉る後夜の読経。なおも回向を忘れず誦するのは、弟安貞のため——心ばかりの手向け草である。
宗貞袖を取出し、アア去ながら血汐にそみし此片袖、身に添持ば先帝への恐れあり、如何はせんと四辺を見廻し、ヲヲ夫よそれよと件の片袖、琴の下樋へ押隠す
宗貞は袖を取り出し、「ああ、さりながら血潮に染まったこの片袖。身に添えて持てば先帝への恐れがある。いかがはせん」と四辺を見まわし、「おお、それよ、それよ」と、くだんの片袖を琴の下樋へ押し隠す。
其間に奥の一間より、一杯機嫌で関守は、調子盃盞携へて、足もひよろひよろ歩みいで、エイ世の中に酒程楽しみはないわいの、ヤアお前はまだ寐ないか、エイヤ何故寐なさらぬよ、シテ此花嫁御は何処へいつた、ハハア彼奴床急ぎだな
そのうちに奥の一間から、ほろ酔い機嫌の関守が調子と盃を携え、足もひょろひょろと歩み出る。「えい、世の中に酒ほど楽しみはないわいの。やあ、お前はまだ寝ないか。えいや、なぜ寝なさらぬよ。して、この花嫁御はどこへ行った。ははあ、あいつ床急ぎだな」
エヽ急ぐやつさ、コレお前もいつて寐なよ、寐ぬは損だ、ばさらんだ、あれはさのゑい、これはさのゑいやと恋の淵、若もはまる気で四つ紅葉
「ええ、急ぐやつさ。これ、お前も行って寝なよ。寝ぬは損だ、ばさらんだ」——あれはさのえい、これはさのえいやと、恋の淵。もしもはまる気で、四つ紅葉。
成程わしは往つて寐ようが、そなたはきつい酔ようぢや、アア危険いあぶないと言様入れる懐中の、手先を押へて
「なるほど、わしは行って寝ようが、そなたはきつい酔いようじゃ。ああ危ない、危ない」と言いざま懐へ入れるその手先を押さえて。
アアコリヤ何をするへ、俺が懐中へ手を入れて、ドどうするのだ
「ああ、こりゃ何をするえ。俺の懐へ手を入れて、ど、どうするのだ」
サア是は
「さあ、これは」
イヤどうするのだよ、エエ聞えたきこえた、紙がないと言事か、神も末社も打連て、目出ためでたの若松様よ、枝も栄へて葉も茂る、お目出たや千代の子お目出たや、千秋万歳ばんぜいばんぜい万々歳、ハアいざさせ給へと押やられ
「いや、どうするのだよ。ええ、聞こえた、聞こえた。紙がないということか」——神も末社も打ち連れて、めでためでたの若松さまよ。枝も栄えて葉も茂る。お目出たや千代の子、お目出たや。千秋万歳、万歳万歳万々歳。はあ、いざさせ給えと押しやられる。
始終を胸に宗貞は心残して奥へ入る
始終を胸に納め、宗貞は心を残して奥へ入る。
あとは手酌の一人酒、アア嘸今頃は茂れ松山、エイアゑい気味だぞ、コリヤ命を掻挘るはへ、どれもう一杯、酒にうつらふ星の影
あとは手酌の一人酒。「ああ、さぞ今ごろは茂れ松山。えいや、えい気味だぞ。こりゃ命を掻きむしるわえ。どれ、もう一杯」——酒に映る星の影。
此盃中にちん星の、閃めく影は寅の一天、今月今宵三百年にあまる、此桜を伐つて護摩木となし、班足太子の塚の神を祭るときは、大願成就心の儘、此斧をもつて立所にどれ
「この盃の中に、ちん星のひらめく影は寅の一天。今月今宵、三百年にあまるこの桜を伐って護摩木となし、班足太子の塚の神を祭るときは、大願成就は心のまま。この斧をもって立ちどころに——どれ」
彼処の石に斧の刃を、押当ておしあて磨ぎ立てる音はそうそうとうとうと、闇を照せる金色は、玉ちる許り物凄き
かしこの石に斧の刃を押し当て押し当て研ぎ立てる音は、そうそう、とうとうと。闇を照らす金色は、玉が散るばかりに物凄い。
此斧の刃を試むるは、幸なる此琴と、突立ちあがつて斧振あげ、二つに伐ればコハ如何に、内より出づる血汐の片袖、手に取上ぐれば懐中に、深く秘置く勘合の印授は、おのれと飛去つて鳴動するぞ不思議なる
この斧の刃を試すには幸いこの琴と、突っ立ち上がって斧を振り上げ、二つに伐ればこはいかに。内から出るのは血潮の片袖。手に取り上げれば、懐に深く秘め置いた勘合の印がひとりでに飛び去って鳴動する——不思議なことよ。
ハテ心得ぬ、此片袖を手に取れば、我懐中の勘合の印、桜の梢に飛去りしは、愈々怪しき此桜木、何にもせよと立かかり、伐らんとすれば目もくらみ、覚えずあとへたぢたぢ、暫し心も消えごえと、斧にすがりて茫然たり
「はて、心得ぬ。この片袖を手に取れば、わが懐の勘合の印が桜の梢へ飛び去ったのは。いよいよ怪しいこの桜木、何にもせよ」と立ちかかり、伐ろうとすれば目もくらみ、覚えずあとへたじたじ。しばし心も消え消えと、斧にすがって茫然としている。
幻影か深雪に積る桜影、実に旦には雲となり、夕べには雨となる、巫山の昔往目のあたり墨染が立姿
幻か、深雪に積もる桜の影。げに朝には雲となり、夕べには雨となるという巫山の昔——その故事さながらに、目のあたりに墨染の立ち姿。
仇し仇なる名にこそたてれ、花の莟のいとけなき、禿立ちから郭の里へ、根ごして植ゑて春毎に、盛の色を山風が、来ては寐よとのかねことも、とまり定めぬ泡沫の、水に散りしく流れの身
仇し仇なる名にこそ立てれ。花の莟のいとけない禿立ちから廓の里へ、根ごと移し植えられて春ごとに盛りの色を——その色を山風が、来ては寝よとのかねごとも、とまり定めぬ泡沫の、水に散りしく流れの身よ。
関守は心付き、ヤア何処とも見馴れぬ女、この山影の関扉へ、何時の間に、何処から来たのだ
関守は気づいて、「やあ、どことも見馴れぬ女。この山蔭の関の扉へ、いつの間に、どこから来たのだ」
アイ私やアノ、撞木町から来やんした
「あい、私はあの、撞木町から来やんした」
ムム何しに来た
「むむ、何しに来た」
逢たさに
「逢いたさに」
ソリヤ誰に
「そりゃ、誰に」
こなさんに
「こなさんに」
何俺に、そりや何故
「何、俺に。そりゃなぜ」
色になつて下さんせ
「色になってくださんせ」
エ何がどうしたと
「え、何がどうしたと」
サア恥かしい事ながら、私しや見ぬ恋にあこがれて、雪をも厭はず遥々と、爰迄来たほどに、何卒色よい返事をして下さんせ
「さあ、恥ずかしいことながら、私は見ぬ恋にあこがれて、雪をもいとわず遥々ここまで来たほどに。なにとぞ色よい返事をしてくださんせ」
コリヤ有難いと言たいが、どうも合点がいかぬはへ
「こりゃ有難いと言いたいが、どうも合点がいかぬわえ」
お前もマア疑ひ深い、其処が歌にもいへる、桜さく桜の山の桜花
「お前もまあ疑い深い。そこが歌にもいえる——桜咲く桜の山の桜花」
咲く桜あり、散る桜あり
「咲く桜あり、散る桜あり」
思ひおもひの人心ぢやはいなア
「思い思いの人心じゃわいなあ」
さう聞けば有さうな事、何にもせい今日の下に二人とない、容貌なら風俗なら、路考いはれぬ撞木町の太夫職が色で逢うとは、コリヤ大きに仕合が直つて来たはへ、そんなら愈々これからは
「そう聞けばありそうなこと。何にもせい、今日び二人とない器量、風俗。路考も言えぬほどの撞木町の太夫職が色で逢おうとは。こりゃ大きに仕合わせが直って来たわえ。そんなら、いよいよこれからは」
いつまでも可愛がつて、秀鶴の千代八千代、諸白髪まで添遂げて下さんせ
「いつまでも可愛がって、秀鶴の千代八千代、ともに白髪になるまで添い遂げてくださんせ」
夫は近頃忝謝ない、ときに太夫さん、お前のお名はへ
「それは近ごろかたじけない。ときに太夫さん、お前のお名はえ」
墨染と言やんす
「墨染と言いやんす」
何墨染、あの桜の名も原は墨染
「何、墨染。あの桜の名ももとは墨染」
エエ
「ええ」
ハテゑいお名で御座りますの、夫は兎もあれついに俺は、女郎買をした事がないが、曲輪の駆引
「はて、よいお名でございますの。それはともあれ、ついぞ俺は女郎買いをしたことがないが、廓の駆け引き」
馴染のしこなし間夫狂ひ、実と
「馴染のしこなし、間夫狂い。実と」
嘘との
「嘘との」
手管の諸訳
「手管の諸訳」
裏茶屋這入りの魂胆まで
「裏茶屋入りの魂胆まで」
そんなら爰で話さうかへ
「そんなら、ここで話そうかえ」
行も帰るも忍ぶの乱れ、限り知れぬ我思ひ
行くも帰るも忍ぶの乱れ、限り知れないわが思い。
月夜も闇夜も此郭、忍び頭巾の格子先
月夜も闇夜もこの廓。忍び頭巾の格子先。
行きつ戻りつ立尽す
行きつ戻りつ立ち尽くす。
向ふへ照す提灯の、紋は菊蝶丁度よい、首尾と思へど遣手が見るめ
向こうへ照らす提灯の紋は菊蝶、ちょうどよい。首尾と思えど、遣手が見る目。
待たぞや
「待ったぞや」
ヲヲよう来なんした逢たかつたも目で知せ、暖簾くぐりて入るあとを
「おお、よう来なんした」——逢いたかったのも目で知らせ、暖簾をくぐって入るあとを。
残り多げに差覗き、ア扨待せるぞまたせるぞと、一人呟く程もなく
名残多げに差し覗き、「あ、さて待たせるぞ、待たせるぞ」と一人呟くほどもなく。
籬の内より小手招き、ふわと著せたる襠に
籬の内から小手招き、ふわと着せかけた打掛に。
裾に隠れて長廊下、毒蛇の口を遁れし心地、ほつと一息つく鐘も、引四つ過て床の上
裾に隠れて長廊下。毒蛇の口を逃れた心地でほっと一息、つく鐘も引け四つ過ぎて、床の上。
ヤまだ此暖まりのさめぬのは、先刻に帰つた客でもよもやあるまい、コリヤ外に出来たはへ、何処の何奴か知らねども、お年が若うてよい男で、お金も沢山御所持なされた色男様と、しつぽりお契りなされたで御座りませうの、エエ腹の立つ
「や、まだこの暖まりのさめぬのは、先刻に帰った客でもよもやあるまい。こりゃ外に出来たわえ。どこのどいつか知らねども、お年が若うてよい男で、お金もたくさんご所持なされた色男さまと、しっぽりお契りなされたのでございましょうの。ええ、腹の立つ」
ホホホホコリヤ可笑しい、覚えもない事言掛て、口舌の種にさんすのかへ
「ほほほほ、こりゃ可笑しい。覚えもないことを言いかけて、口舌の種になさんすのかえ」
憎らしいとふつつり捻れば
「憎らしい」とふっつり捻れば。
アイタあいた痛いはい、斯麼所に居やうより、帰りましようかへりましよ
「あいた、あいた、痛いわい。こんな所にいようより、帰りましょう、帰りましょう」
これいなア
「これいなあ」
身は色々の形姿
身はいろいろの姿かたち。
あしなかを、つま立てちよこちよこ、ちよこちよこ足を爪立て
足半を爪立ててちょこちょこ、ちょこちょこと足を爪立てて。
ハアこれはしたり、煙草入を忘れておいた、ア儘よ何とせう、アイヤイヤうかうかとして睫毛でもよまれては恐い事、どれとは思へどどうせうなア、イヤイヤ思ひ切つてどうでも帰らう
「はあ、これはしたり。煙草入れを忘れておいた。あ、ままよ、何としよう。いやいや、うかうかとして睫毛でも読まれては恐いこと。どれとは思えど、どうしようなあ。いやいや、思い切ってどうでも帰ろう」
これ
「これ」
往のうやれ、我古郷へ帰ろやれ
往のうやれ、わが古郷へ帰ろうやれ。
立舞ふ内に落たる袖、これはと墨染取上げて抱締つ身に添ひつ、床しき夫の筐やと、人目も恥ず泣ければ
立ち舞ううちに落ちた袖。これはと墨染が取り上げて、抱きしめては身に添え、ゆかしい夫の形見よと、人目も恥じずに泣けば。
ヤアそなたは何を泣のぢや
「やあ、そなたは何を泣くのじゃ」
サアこれは、ヲヲそれそれ此片袖は他処の女中さんから書てよこさしやんした起請ぢやの
「さあ、これは。おお、それそれ。この片袖は、よその女中さんから書いてよこさしゃんした起請じゃの」
イヤそりや片袖だ
「いや、そりゃ片袖だ」
イエイエ起請で御座んせう
「いえいえ、起請でござんしょう」
オオ成程起請ぢや、エエお前はなア
「おお、なるほど起請じゃ。ええ、お前はなあ」
これこの様に始めから、起請誓紙を取替し、深いお方が有ながら、隠して置いて又わしに、色で逢うとはようもようも誑かさんしたか憎らしい
「これ、このように始めから起請誓紙を取り交わした深いお方がありながら、隠しておいてまた私に色で逢おうとは。ようもようも誑かさんしたか、憎らしい」
そうとも知らず慕ひ来て、見れば果敢なや片袖の、血汐の文字は亡跡の、筐と思へばいとど尚、アレ懐かしい悲しいと、言葉に色は含めども、心の剣穂に現はれ、立寄る女を
そうとも知らず慕い来て、見ればはかなや片袖の血潮の文字は亡きあとの形見。そう思えばいっそうなお、「あれ懐かしい、悲しい」と言葉に色は含めども、心の剣は穂にあらわれる。立ち寄る女を。
はつたと白眼みつけ、最前より此片袖に、心をかくる怪しき女、様子を明せ何となにと
はったと睨みつけ、「先ほどからこの片袖に心をかける怪しい女。様子を明かせ、何と、何と」
ヲヲ此片袖は夫の血汐、それのみならず最前我業通にて手に入れし、勘合の印を所持なすからは様子があらう、本名あかせ何とぢや
「おお、この片袖は夫の血潮。それのみならず、先ほどわが神通力で手に入れた勘合の印を所持するからには仔細があろう。本名を明かせ、何とじゃ」
斯なる上は何をかつつまん、我こそは中納言家持が嫡孫、天下を望む大伴の黒主とは俺が事だはや
「こうなるうえは何を包み隠そう。われこそは中納言家持の嫡孫、天下を望む大伴の黒主とは俺のことだわ」
扨こそ
「さてこそ」
我に恨みをなさんとする、そも先汝は何者ぢや
「われに恨みをなそうとする、そもそも汝は何者じゃ」
のう去し恨みのあればこそ、そも人間の業うけて、女子とは見すれども、小町桜の精魂なり
「のう、去りし恨みがあればこそ。そもそも人間の業を受けて女とは見せるけれど、小町桜の精魂である」
我は非生の桜木も人界の生を受くれば、七つの性も備はつて、五位之助安貞殿に、契りしことも情なや
「われは心なき桜木も、人界の生を受ければ七つの性も備わって、五位之助安貞どのに契ったことも——情けなや」
不慮の矢疵に玉の緒も、絶るばかりの折も折、御兄君の身に代り、敢なく此世を去給ふ、夫の筐の片袖に、ひかれ寄る身は陽炎ふ姿
「不慮の矢傷に玉の緒も絶えるばかりの折も折、御兄君の身に代わってあえなくこの世を去りたもうた。夫の形見の片袖に引かれて寄るこの身は、陽炎のような姿よ」
我本性の桜木を、邪慳の斧にかかりしぞや、報ひの程は思ひ知れと、あり合桜を呵責の笞、はつたと白眼む有様を
「わが本性の桜木を邪慳の斧にかけたぞや。報いのほどは思い知れ」と、ありあう桜を呵責の笞として、はったと睨むそのありさまを。
ヤア小癪と無二無三
「やあ、小癪な」と無二無三に。
斧取直して打掛れど、凡人ならぬ精霊の、業通自在の身も軽く、ひらりひらり飛かふ姿は吹雪の桜、霞がくれや朧夜の、水の月影手にもとられず、見えみ見えずみ又現はれて、今ぞ則ち人界の、輪廻を離れ根にかへる、しるしを見よと言声ばかり形は消えて桜木に、春も斯くやと帰り花、雪を踏つけ踏みしだき、水に戻れば墨染の、小町桜と世に広き、普く筆に書残す
斧を取り直して打ちかかるけれど、凡人ならぬ精霊は神通力自在に身も軽く、ひらりひらりと飛びかう姿は吹雪の桜。霞隠れや朧夜の水の月影のように手にも取られず、見えつ見えずつまた現れて——今こそすなわち人界の輪廻を離れ、根に帰るしるしを見よ、という声ばかりを残して形は消え、桜木に春もかくやと帰り花。雪を踏みつけ踏みしだき、水に戻れば墨染の小町桜として世に広く、あまねく筆に書き残されたのであった。
この曲は常磐津。詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第四編 常磐津集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開し、合方の指示は省いた。
本名題は『積恋雪関扉』。詞は劇神仙。作曲者・初演年は原典に記載がない。
原典は上下二巻に分けて載せるが、一曲なのでここではひと続きにした。
常磐津を代表する曲。関守関兵衛は実は天下を望む大伴黒主で、下の巻でその正体があらわれる。良峯宗貞(僧正遍昭)と小野小町の恋物語がその前段に置かれる。
「小町桜」は先帝の御陵に移された愛樹。崩御を悲しんで薄墨色に咲いたのを、小町の歌の徳で盛りの色に戻したと語られる。この桜の精が、下の巻で墨染となって現れる。
「百夜通ふて」は深草少将の百夜通いの伝説。九十九夜まで通って果てたとされる。ここでは宗貞の恋に重ねる。
「二子乗舟」は『詩経』邶風の篇名。衛の公子が兄に代わって死んだ故事によるので、宗貞は弟安貞の死をこれで知る。
「八声の名鏡」は大友家の重宝。裏の鶏が血に触れると鳴くという。
「言はぬは言ふに」は「言はぬは言ふにいや勝る」の諺。
次の語は語義が定めがたく、推測で埋めず原典のまま残した。「五尺いよこ」「しよんがへ」「わくせき」「真蘇枋の芒」「ゑんれつの声」「そつこでせい」。当ライブラリの『戻駕』『双面』にも同じ「そつこでせい」の囃子が出る。
流儀・稽古本によって仮名遣いや字句に異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。