親子草おやこぐさ
作詞者・作曲者・初演年不詳 荻江節 原典の題名「おやこぐさ」

入相に散る花と、曙にまた生まれる花に寄せて、子を眺めて飽かぬ親の心を歌う。育て上げれば目に余ることもあり、それも子ゆえの闇。所帯を持った子の行く末を案じるところで納める。
あらすじ
入相の鐘が鳴る頃には花も散ってしまうだろう。けれど曙にはまた花が生まれるような心地がして、眺めても眺めても飽きることがない——子福者の心とはそのようなもの。目の中に入れても痛くないほどに育て上げてみれば、こんどは目に余ることもある。それも子ゆえの闇の、あとになり先になり。思いもかけぬその身のひと盛り。「いたずら者と言われようが、ああままよ。父さん母さん、許してくださいな」——そのあどけなさも、いまは当たり前の所帯持ち。その行く末を案じるのが、親子草というものである。
詞章と現代語訳
入相には花や散りなん、曙は花も生るる心地して、眺めに飽かぬ子福者の
入相の鐘が鳴る頃には、花も散ってしまうだろう。けれど曙には、花もまた生まれるような心地がして、眺めても眺めても飽きることがない——子福者の心とは、そのようなもの。
目にも入れ育てあげては、目にあまりても子ゆゑの闇の、あとや先
目の中に入れても痛くないほどに育て上げてみれば、こんどは目に余ることもある。それも子ゆえの闇の、あとになり先になり。
思はぬその身ひと盛り
思いもかけぬ、その身のひと盛り。
いたづらものと言はれうが、ああままよ、父さんや母さん許さんせと、あどけないのも常世帯
「いたずら者と言われようが、ああままよ。父さんや母さん、許してくださいな」——そのあどけなさも、いまは当たり前の所帯持ちである。
気の末を案ずる親子草
その行く末を案じる——それが親子草というものである。
詞章は『徳川文芸類聚』第十 俗曲下 所収『荻江節正本』の本文(著作権消滅)により、繰り返し記号は読みやすく展開し、合方〔合〕の指示は省いた。原典は総かな書きで題名を「おやこぐさ」とする。
原典は総かな書きのため、読みやすさを考えて漢字を当てた箇所が多い。題名も「親子草」と改めた。
「子ゆゑの闇」は『後撰集』の藤原兼輔の歌「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」による。子を思うあまり分別を失うことをいう。
「入相」は日暮れに撞く鐘。ここは一日の終わりをいう。
「子福者」は子宝に恵まれた人。
「親子草」は親と子を並べていう語。草の名にことよせて、親子の情を題とする。
「常世帯」は原典に「つね世たい」とあり、当たり前の所帯、一人前の暮らしの意と解した。
作詞者・作曲者・初演年は原典に記載がない。流儀・稽古本によって仮名遣いや字句にも異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。