落人おちうど
清元 本名題『道行旅路の花聟』 別題『お軽勘平』 三升屋二三治 述 作曲者・初演年不詳

『仮名手本忠臣蔵』の三段目のあと、判官切腹の場に居合わせなかった早野勘平が、腰元お軽を連れて鎌倉を落ちてゆく道行。清元の代表曲のひとつで、「落人」の名でよく知られる。若草の野辺、梅が花、帰る雁と春の景を連ねて戸塚の山中にさしかかり、松蔭でしばしの足休め。二人のなれそめの睦言から、勘平は主君の大事をよそにした自分を責めて死を口にし、お軽は「二人心中じゃと誰がお前を褒めますぞえ」と押しとどめて、在所の山崎へ誘う。そこへ鷺坂伴内が捕り手を連れて現れるが、桜と桃の色事の掛け合いにあしらわれて、命からがら逃げてゆく。結びは東の空が白み、塒を離れる烏の声。先は急げど心は跡へ——お家の安否を案じつつ落ちてゆく二人で納める。
あらすじ
落人も、見るかや野辺に若草の。薄尾花はなけれども、世を忍び路の旅衣。着つつ慣れにし振袖も、どこやら知れる人目をば、隠せど色香、梅が花。散りても跡の花の中、いつか故郷へ帰る雁。まだ花寒き春風に、柳の都をあとに見て、気も戸塚はと吉田橋。墨絵の筆に夜の富士、よそ目に夫と影暗き、鳥の塒を辿り来る。鎌倉を出てようよう、ここは戸塚の山中。石高道で足は痛みはせぬかや。何の、それよりはまた行く先が思われて。そうであろう。しかし昼は人目を憚る故。幸いここの松蔭で。しばしがうちの足休め。ほんに、それがよいわいなあ。何もわけなき憂さ晴らし。憂きが中にも旅の空、初時鳥、明け近く。色で逢いしも昨日今日。堅い屋敷の御奉公、あの奥様のお使いが。二人が塩冶の御家来で、その悪縁か。白猴によう似た顔の、錦絵の——こんな縁が唐紙の、鴛鴦の番いの楽しみに。泊まり泊まりの旅籠屋で、ほんの旅寝の仮枕。うれしい仲じゃないかいな。空定めなき花曇り。暗きこの身の繰り言は、恋に心を奪われて、お家の大事と聞いた時。重きこの身の罪科と、かこち涙に目も潤む。よくよく思えば跡先のわきまえなく、ここまで来たけれども。主君の大事をよそにして、この勘平はとても生きてはいられぬ身の上。そなたは言わば女子のこと、死後の弔い頼むぞ、お軽。さらば。あれ、またそのようなことを言わしゃんすか。私ゆえにお前の不忠、それが済まぬと死なしゃんしたら、私も死ぬる。その時は、あれ、二人心中じゃと、誰がお前を褒めますぞえ。さ、ここの道理を聞き分けて、ひとまず私が在所へ来てくださんせ。父さんも母さんも、それはそれは頼もしいお方。もうこうなった因果じゃとあきらめて、女房の言うこともちっとは聞いてくれたがよいわいなあ。それ、その時の狼狽者には誰がした。みんな私が心から。死ぬるその身を長らえて。思い直して親里へ、連れて夫婦が身を忍び。野暮な田舎の暮らしには、機も織り候う賃仕事。常の女子と言われても、取り乱したる真実が。やがて届いて山崎の、ほんに私があるゆえに。今のお前の憂き難儀、堪忍してとばかりにて、人目なければ抱きつき、言葉に色をや含むらん。なるほど聞き届けた。それほどまでに思うてくれるそちが親切。しかし我が身の親達へ面目ない。ひとまず立ち越え、時節を待って御詫びせん。そんなら聞き届けてくださんすか。うれしいぞえ。さあ、支度しゃれ。身拵えするその所へ、家来引き連れ鷺坂伴内。やあやあ勘平。うぬが主人の家の断絶、その中でお軽を連れて駆け落ちか。うまいな、うまいな。ちっとこちらの言い分があれば、お軽を渡して縄かかれ。やらぬと掛かる家来を投げ退け、四人がかりの桜狩り。桜、桜という名に惚れて。どっこい、やらぬは。そりゃ、なぜに。しょせん、お手には入らぬが花よ。そりゃこそ見たばかり。それでは色にはならぬぞえ。桃か、桃かと色香に惚れて。どっこい、やらぬは。そりゃ、なぜに。しょせん、儘にはならぬが風よ。そりゃこそ他愛ない。それでは色にはならぬぞえ。口の減らない鷺坂は、腰をかかえてこそこそと、命からがら逃げて行く。彼を殺さば不忠の上に重ぬる罪科。もはや明け方、人目にかかったら二人が身の上。あれ、山の端の。東に白む。横雲に。塒を離れ鳴く烏。可愛、可愛の夫婦連れ。先は急げど心は跡へ、お家の安否いかにぞと、案じ行くこそ道理なれ、道理なれ。
詞章と現代語訳
落人も、見るかや野辺に若草の〔合〕芒尾花はなけれども、世を忍び路の旅衣、着つゝ慣にし振袖も〔合〕何処やら知れる人目をば、隠せど色香梅が花〔合〕散りても跡の花の中、いつか故郷へ〔合〕帰る雁、まだはな寒き春風に〔合〕柳の都〔合〕あとに見て、気も戸塚はと吉田橋、墨絵の筆に夜の不二、余所目に夫と影暗き、鳥の塒を辿り来る
落人も、見るかや野辺に若草の。薄尾花はなけれども、世を忍び路の旅衣。着つつ慣れにし振袖も、どこやら知れる人目をば、隠せど色香、梅が花。散りても跡の花の中、いつか故郷へ帰る雁。まだ花寒き春風に、柳の都をあとに見て、気も戸塚はと吉田橋。墨絵の筆に夜の富士、よそ目に夫と影暗き、鳥の塒を辿り来る。
鎌倉を出でやうやうと、爰は戸塚の山中、石高道で足は痛みはせぬかや
鎌倉を出てようよう、ここは戸塚の山中。石高道で足は痛みはせぬかや。
何のそれよりはまた行先が思はれて
何の、それよりはまた行く先が思われて。
さうであらう、然し昼は人目を憚る故
そうであろう。しかし昼は人目を憚る故。
幸いこゝの松蔭で
幸いここの松蔭で。
暫しがうちの足休め
しばしがうちの足休め。
ほんに夫れがよいわいなア
ほんに、それがよいわいなあ。
何も訳なき憂さはらし、憂が中にも旅の空、初時鳥明近く
何もわけなき憂さ晴らし。憂きが中にも旅の空、初時鳥、明け近く。
色で逢ひしも昨日今日、堅い屋敷の御奉公〔合〕あの奥様のお使が〔合〕二人が塩谷の御家来で〔合〕その悪縁か白猴に〔合〕よう似た顔の〔合〕錦絵の
色で逢いしも昨日今日。堅い屋敷の御奉公、あの奥様のお使いが。二人が塩冶の御家来で、その悪縁か。白猴によう似た顔の、錦絵の——
こんな縁が唐紙の、鴛鴦の番ひの楽しみに〔合〕
こんな縁が唐紙の、鴛鴦の番いの楽しみに。
泊り泊りの旅籠屋で、ほんの旅寢の仮枕、嬉しい中ぢやないかいな
泊まり泊まりの旅籠屋で、ほんの旅寝の仮枕。うれしい仲じゃないかいな。
空さだめなき花曇、暗き此身の繰言は、恋に心を奪はれて、お家の大事と聞いた時〔合〕重き此身の罪科と、かこち涙に目もうるむ
空定めなき花曇り。暗きこの身の繰り言は、恋に心を奪われて、お家の大事と聞いた時。重きこの身の罪科と、かこち涙に目も潤む。
よくよく思へば跡先の、わきまへ無く爰まで来たけれども、主君の大事を余所にして此の勘平はとても生ては居られぬ身の上、そなたは云はゞ女子のこと、死後のとむらひ頼むはお軽去らば
よくよく思えば跡先のわきまえなく、ここまで来たけれども。主君の大事をよそにして、この勘平はとても生きてはいられぬ身の上。そなたは言わば女子のこと、死後の弔い頼むぞ、お軽。さらば。
あれ又其の様な事言はしやんすか、私故にお前の不忠、夫が済ぬと死なしやんしたら、私も死ぬるその時は、アレ二人心中ぢやと、誰がお前を褒めますぞへ、サ爰の道理を聞分けて、一と先私が在所へ来て下さんせ、父さんも母さんもそれはそれは頼母しいお方、もう斯うなつた因果ぢやとあきらめて、女房の言ふこともちつとは聞いて呉れたがよいわいなア
あれ、またそのようなことを言わしゃんすか。私ゆえにお前の不忠、それが済まぬと死なしゃんしたら、私も死ぬる。その時は、あれ、二人心中じゃと、誰がお前を褒めますぞえ。さ、ここの道理を聞き分けて、ひとまず私が在所へ来てくださんせ。父さんも母さんも、それはそれは頼もしいお方。もうこうなった因果じゃとあきらめて、女房の言うこともちっとは聞いてくれたがよいわいなあ。
夫其の時の、狼狽者には誰がした〔合〕みんな私が心から、死ぬる其の身を〔合〕長らへて〔合〕
それ、その時の狼狽者には誰がした。みんな私が心から。死ぬるその身を長らえて。
思ひ直して親里へ、連て夫婦が〔合〕身を忍び〔合〕
思い直して親里へ、連れて夫婦が身を忍び。
野暮な田舎の〔合〕暮しには、機も織り候賃仕事、常の女子と言れても、取乱したる真実が〔合〕
野暮な田舎の暮らしには、機も織り候う賃仕事。常の女子と言われても、取り乱したる真実が。
やがて届いて山崎の、ほんに私が〔合〕ある故に
やがて届いて山崎の、ほんに私があるゆえに。
今のお前の憂き難儀、堪忍してと許りにて、人目なければ抱きつき、言葉に色をや含むらん
今のお前の憂き難儀、堪忍してとばかりにて、人目なければ抱きつき、言葉に色をや含むらん。
成程聞届けた、夫程までに思ふて呉れるそちが親切、然しわが身の親達へ面目ない、ひと先立超え時節を待つて御詫せん
なるほど聞き届けた。それほどまでに思うてくれるそちが親切。しかし我が身の親達へ面目ない。ひとまず立ち越え、時節を待って御詫びせん。
そんなら聞届けて下さんすか、嬉しいぞへ
そんなら聞き届けてくださんすか。うれしいぞえ。
サア仕度しやれ
さあ、支度しゃれ。
身拵する其の所へ、家来引連れ鷺坂伴内
身拵えするその所へ、家来引き連れ鷺坂伴内。
ヤアヤア勘平、うぬが主人の家の断絶其の中で、お軽をつれて駆落か、うまいなうまいな、ちつと此方の言分があれば、お軽を渡して縄かゝれ
やあやあ勘平。うぬが主人の家の断絶、その中でお軽を連れて駆け落ちか。うまいな、うまいな。ちっとこちらの言い分があれば、お軽を渡して縄かかれ。
やらぬと掛る家来を投げ退け、四人がゝりの桜狩
やらぬと掛かる家来を投げ退け、四人がかりの桜狩り。
桜々といふ名に惚れて〔合〕どつこいやらぬは〔合〕
桜、桜という名に惚れて。どっこい、やらぬは。
そりや何故に〔合〕
そりゃ、なぜに。
しよせん〔合〕お手には入らぬが花よ〔合〕
しょせん、お手には入らぬが花よ。
そりやこそ見たばかり〔合〕夫では色にはならぬぞへ〔合〕
そりゃこそ見たばかり。それでは色にはならぬぞえ。
桃か桃かと色香に惚れて〔合〕
桃か、桃かと色香に惚れて。
どつこいやらぬは〔合〕
どっこい、やらぬは。
そりや何故に〔合〕
そりゃ、なぜに。
しよせん儘にはならぬが風よ〔合〕
しょせん、儘にはならぬが風よ。
そりやこそ他愛ない〔合〕
そりゃこそ他愛ない。
夫では色には〔合〕ならぬぞへ
それでは色にはならぬぞえ。
口のへらない鷺坂は〔合〕腰をかゝへてこそこそと、命からがら逃て行く
口の減らない鷺坂は、腰をかかえてこそこそと、命からがら逃げて行く。
彼を殺さば不忠の上に重ぬる罪科、最早明方人目にかゝらば二人が身の上
彼を殺さば不忠の上に重ぬる罪科。もはや明け方、人目にかかったら二人が身の上。
あれ山の端の
あれ、山の端の。
東に白む
東に白む。
横雲に
横雲に。
塒を離れ鳴く烏、可愛可愛の夫婦連、先は急げど心は跡へ、お家の安否如何ぞと、案じ行くこそ道理なれ道理なれ
塒を離れ鳴く烏。可愛、可愛の夫婦連れ。先は急げど心は跡へ、お家の安否いかにぞと、案じ行くこそ道理なれ、道理なれ。
詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第三編 清元集(明治四十二年)の校訂本文(著作権消滅)による。繰り返し記号は読みやすく展開し、合方の指示は省いた。
本名題は『道行旅路の花聟』(みちゆきたびぢのはなむこ)。別題『お軽勘平』。三升屋二三治 述。作曲者・初演年は原典に記載がない。
『仮名手本忠臣蔵』の登場人物による。塩冶判官の家来・早野勘平は、腰元お軽との逢瀬のため主君の大事に居合わせず、その罪を負ってお軽の在所である山崎へ落ちてゆく。鷺坂伴内は高師直の家来で、お軽に横恋慕している敵役。
「柳の都」は鎌倉、「戸塚」「吉田橋」は東海道の宿と橋。落人が鎌倉から西へ向かう道筋を、春の景物とともに詠み込む。
「気も戸塚はと」は「気も解けず」に戸塚を掛けた地口。「桜狩」は捕り手が四方から掛かるさまに、花見の桜狩を掛けたもの。以下の桜・桃の掛け合いは、伴内をあしらう色事の言い立てである。
「白猴」は白い猿。錦絵にも描かれた見世物で、伴内の顔をそれに似ていると笑う。
この曲は道行だが、死の場はない。二人が落ちてゆくところで終わる。
語義の定めがたい語は推測で埋めず原典のまま残した。「機も織り候賃仕事」(「候」の読みが定めがたい)、「やがて届いて山崎の」(在所の山崎へ届く意か)。
流儀・稽古本によって仮名遣いや字句に異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。