藤舎の紋 藤舎名玄TOSHA MEIGEN ― 詞章ライブラリーへ戻る
常磐津

神路山色琫かみじやまうきなのこいぐち

常磐津  瀬川如皐 述  資料目次の別記「お紺貢」  作曲者・初演年不詳

神路山色琫 黄昏の文机
黄昏の文机

伊勢古市の油屋を舞台に、遊女お紺と御師福岡貢、遣手の万野、料理人の喜介らが織りなす「伊勢音頭」(歌舞伎『伊勢音頭恋寝刃』でおなじみの油屋の一件)の世界による世話物。名刀青江下坂とその折紙の詮議を軸に、前半は阿波の客徳島岩治の座敷の俄尽くしの滑稽、後半はお紺の切ない胸のうちと、刀をめぐる悪者たちの企み。終わりは岩治が刀の中身をすり替えるところで曲を納め、油屋騒動の惨劇そのものは描かれない。

あらすじ

伊勢古市の油屋は、阿波の客徳島岩治の五日あまりの居続けで、浮かれ騒ぎのまっただ中。岩治の狙いは遊女お紺を手に入れること。遣手の万野が取り持ちを請け合い、藍玉屋北六や、治郎介・丈八・殿中・破扇ら太鼓持ちの連中がはやし立てる。座敷では吉原の廓話に、柴又の帝釈様への道すがら娘に見とれるのら和尚の俄、あべこべの雷の唄、餅尽くしの地口と、にぎやかな芸尽くしがつづく。その騒ぎの裏で、お紺はひとり辛い座敷を抜け出して思い沈む。貢には許嫁も養子先の義理もある身、縁を切ってくれという叔母様のくれぐれもの頼みを受けて、別れる覚悟を固め、せめて死後の言い訳にと一筆をしたためる。折から貢が油屋へたずねて来るが、万野は油虫だのかす禰宜だのと貢をこきおろし、よその女郎への無心状だという文殻をお紺に突きつける。ひと目で偽筆と見抜いたお紺は、それでも言い返さず、心にもなく岩治に乗り替わると言ってのけ、涙を隠して座敷へ出る。やって来た貢を万野は冷たくあしらい、伊勢の茶屋のならいと腰の物を預けるよう迫る。困る貢の窮地を救ったのは料理人の喜介。じつは父の代に貢の家に仕えた縁があり、亡き父の遺言を守って蔭ながら忠義を尽くすと明かす。貢も心底を打ち明ける。預けた一腰こそ主家の若殿のために求める名刀青江下坂、夜ごとの廓通いは、かたり取られた折紙の詮議のためであった。ところがその立ち話を、北六・万野・治郎介が立ち聞きしてしまう。奥座敷では下坂を盗み出そうと滑稽な知恵くらべ。その隙に岩治はひとり、預けられた下坂と自分の差料の中身をすり替え、しっくり鞘へ納めて、にこにこ笑いの止まらぬまま一間へ入るのであった。

詞章と現代語訳

派手はでは遊あそびは備前びぜん杉本すぎもと油屋あぶらやへ、東方とうはう南方なんぱう北方ほくはう西方さいはう、くるはお客きやくの酒さけに浮立うきたち、弾ひけや弾ひけ三味しやみ浮うかれ色いろめく女郎衆ぢよらうしゆ芸子げいこに、いつかな粋すゐめもうつゝぬかして、有頂天うちやうてんつく鼓つづみに太鼓たいこ、ヨイヨイよやさのよやさの、わいわいのわいとな

派手な遊びなら、備前屋・杉本屋・油屋へ。東方南方北方西方、廓へ「来るは」お客と洒落て、酒に浮かれ立ち、弾けや弾けの三味線に、浮かれ色めく女郎衆や芸子に、さすがの粋人までうつつを抜かして有頂天。打つ鼓に太鼓、ヨイヨイよやさのよやさの、わいわいのわいとな。

此この藍玉屋あゐだまや北六きたろくが大事だいじのお客人きやくじん、阿波あはの徳島とくしま岩治様いはじさまと五日余いつかあまりの飲続のみつづけ

この藍玉屋北六の大事のお客人、阿波の徳島岩治様と、五日あまりの飲み続け。

昨日きのふ芝居しばゐ今日けふは又また、此この徳島とくしまが催もよほしでお紺こんお岸きしを伴ともなふて

昨日は芝居、今日はまた、この徳島の催しで、お紺とお岸を連れ立って。

朝熊山あさまやまの朝景色あさげしきと

朝熊山の朝景色を見よう、と。

その様やうに岩治いはじさんが、心こころを尽つくしなさんすも

そのように岩治さんが心を尽くしなさるのも。

お紺こんの君きみをお手てに入いれんず謀事はかりごと

お紺の君を手に入れようという謀。

コレ万野まんのアノ貢みつぎめが手てを切きつて、お紺こんがわれらに靡なびくやう、その取持とりもちはそもじの働はたらき

これ万野、あの貢めと手を切って、お紺がわれらに靡くよう、その取り持ちはそなたの働き次第。

頼たのむ頼たのむ

頼む、頼む。

ヲツト皆みなまで言いんすな、これでも元もとは江戸えどに居ゐて、花はなの盛さかりの吉原よしはらの、大町おほまち小店こみせ其処此処そこここと、ツイ泥水どろみづはそみやすく、不図ふとした浮気うはきの仲町なかちやうから、堅かたい石場いしばとおつこち故ゆゑ、二度にどの勤つとめの品川しながはや、神奈川かながはかけて大磯おほいそと、流ながれ渡わたりの苦労人くらうにん、今いまでは年としも古市ふるいちに、遣手やりての万野まんのと言いはれては、少すこしびんながら色恋いろこひの、諸訳しよわけも知しつた大姉おほあね、此この取持とりもちを請合うけあふからは、五分ごぶでもあとへは引ひきやんせぬ、マアさう思おもふて下くださんせいなア

おっと、皆まで言いなさんすな。これでも元は江戸にいて、花の盛りの吉原の、大見世小見世をあちらこちらと。つい泥水稼業には染まりやすく、ふとした浮気で深川仲町から、堅気ならぬ石場へところび落ちたゆえ、二度めの勤めの品川や、神奈川から大磯までと流れ渡った苦労人。今では年も古りた古市で、遣手の万野と言われるからは、少びんながら色恋の諸訳も心得た大姉貴。この取り持ちを請け合うからは、五分ほども後へは引きなさんせぬ。まあ、そう思ってくださんせいなあ。

イヨ大和屋やまとやア

いよう、大和屋ぁ。

ハヽヽハヽヽヽヽ

はははは、と笑い声。

これは万野まんのの言通いひどほり、アノお紺こんさんが

これは万野の言うとおり。あのお紺さんが。

旦那だんなの思おもはくとなることは、斯かく申まうす治郎介ぢろすけや

旦那の思わく通りになることは、かく申す治郎介や。

此この丈八ぢやうはちが請合うけあひの西瓜すゐくわ、真赤まつかな嘘うそではないことは

この丈八が請け合いの西瓜——中身まで真っ赤でも、真っ赤な嘘ではないことは。

爰ここに御座ござんすお江戸えどのぼりの、殿中でんちゆうさんや破扇はせんさんが

ここにおりますお江戸上りの、殿中さんや破扇さんが。

お請合うけあひ申まうすからは

お請け合い申すからは。

モシ旦那だんな親船おやぶねに乗のつた心持こころもちで

もし旦那、大船——親船に乗った心持ちで。

落付おちついて御座ござりませ

どっしり落ち着いていらっしゃいませ。

コレコレその請合うけあひの手始てはじめに

これこれ、その請け合いの手始めに。

面白おもしろい芸事げいごとが所望しよまう所望しよまうとそやされて

面白い芸事を所望、所望、とはやし立てられて。

さうお見立みたてに預あづかつては

そうお見立てにあずかっては。

少々せうせう恐おそれ入山形いりやまがた、二ふたツ星ぼしの華魁おいらんなら

少々恐れ入り——「入山形に二つ星」の最上級の花魁なら。

訳わけよし原はらの色郭いろぐるわに、ゑんり江戸町えどちやう伏見町ふしみちやう、引四ひけよッ過すぎの火ひの用心ようじんさつしやりませう、二階にかいを廻まはらしやりませう、首尾しゆび待まつ夜半よはの廻まはし部屋べや

訳を知る者ぞ知る「わけよし原」——吉原の色郭では、江戸町、伏見町、引け四つ過ぎの「火の用心さっしゃりましょう、二階を回らっしゃりましょう」の触れ声。首尾を待つ夜半の廻し部屋。

ヲツト其その吉原よしはらの郭くるわの様子やうすは、皆様みなさまも御案内ごあんないだ

おっと、その吉原の廓の様子は、皆様もとうにご存じだ。

サア珍めづらしいお話はなしと言いつては何なんにもない、ほんにそれそれ此間このあひだ柴又村しばまたむらの、帝釈様たいしやくさまへ参詣さんけいと出掛でかける向むかふより

さあ、珍しいお話といっては何もないが、ほんに、それそれ。この間、柴又村の帝釈様へお参りと出かけると、向こうから。

斯かかる所ところへ葛西領かさいりやうなる篠崎村しのざきむらの、弥陀堂みだだうの坊様ばうさまは、雨降あめふりあげくに修業しゆげふと出でかけて、右みぎに数珠じゆず持もち、左ひだりの肩かたには大おほきな木魚もくぎよ、横よこたにかゝへて、南無なむからたんのうとらやあやあ、おらが嬶かかあがつばらんだアの、隣となりのかみさん是者これしやぢやの、何なんの彼かのと修業しゆげふはよけれど、遥はるか向むかふから、十六七じふろくしちなる姉ねえさんなんぞを、一寸ちよつと又また見染みそめた、アアアアヱヽヱヽセノヨイヨイヨイ、よつぽど女をんなにやのら和尚をしやう

そこへ、葛西領は篠崎村の弥陀堂の坊様が、雨上がりに修行と出かけて来る。右に数珠を持ち、左の肩には大きな木魚を横抱きにかかえて、「南無からたんのう、とらやあやあ。おらが嬶がつばらんだあの、隣のかみさん是者じゃの」と、何のかのと修行はよいけれど、はるか向こうから来る十六、七の姉さんなどを、ちょっとまた見染めた。ああああ、ええええ、セノヨイヨイヨイ。よっぽど女好きの、のら和尚。

これから跡あとが肝腎要かんじんかなめ、其その坊様ばうさまと其その娘むすめとだんだん

これから後が肝心要。その坊様とその娘とが、だんだんに。

深ふかくなりひら其そのお姿すがたに打うちこんで、天てんに上のぼらば比翼ひよくの鳥とり

深い仲となり——在原業平さながらのそのお姿に打ち込んで、天に上れば比翼の鳥。

地ちに又またあらば連理れんりの枝えだと

地にあればまた、連理の枝にと。

さへつさゝれつたのむうち

さえずり交わすように語らい、頼み合ううちに。

折をりしも烈はげしきはやち風かぜ、どうどうどつと吹出ふきだし、雨あめは頻しきりにさつさつさつと降頻ふりしきる、此この虚きよにのつて稲妻いなづまさきてにぴかぴかぴか、雷神らいじんは太鼓たいこ引脊負ひつしよひごろごろごろぴつかり、今いまは詮方せんかた堪たまりかね、万歳楽まんざいらくコレ嬶々かかあかかあ

折しも激しい疾風がどうどう、どっと吹き出し、雨はしきりに、さっさっさっと降りしきる。この隙に乗じて稲妻が先にぴかぴかぴか、雷神は太鼓を引っ背負って、ごろごろごろ、ぴっかり。今はせんかたなく堪りかねて、「万歳楽、万歳楽。これ嬶、嬶」。

間違まちがへば間違まちがふものだよ、稲妻いなづまごろごろ雷神らいじんぴかぴか、蚊帳かやよ嬶かかあ釣つれ臍へそ立たて線香せんかう隠かくせ

慌てれば間違うものだよ。「稲妻ごろごろ、雷神ぴかぴか。蚊帳よ、嬶釣れ、臍立て、線香隠せ」——蚊帳を釣って線香を立て、臍を隠すはずが、みなあべこべ。

ヤア面白おもしろかつた

やあ、面白かった。

御苦労ごくらう御苦労ごくらう

ご苦労、ご苦労。

時ときにお紺こんさんの仕舞しまひの出来できるまで、俄狂言にはかきやうげんの言合いひあはせ、一寸ちよつとお座敷ざしきの居処替ゐどころがはり

ときに、お紺さんの身じまいができるまで、俄狂言の打ち合わせに、ちょっとお座敷の席替え。

さゝめく拍子ひやうしのヤツチヨンヤツチヨン

ざわめく拍子の、ヤッチョンヤッチョン。

サアサア来きなんせ黄粉餅きなこもち

さあさあ「来なんせ」——黄粉餅。

行いかんせ行いかんせ幾世餅いくよもち、提灯餅ちやうちんもちがぬかるみで、すべつて転ころべばあんころ餅もち、旦那だんなは頗すこぶるお金持かねもち、サア囃はやす末社まつしやの友狐ともぎつね、さゞめき連つれて入いりにける

「行かんせ行かんせ」——幾世餅。提灯持ちがぬかるみで、すべって転べばあんころ餅。旦那はすこぶるお金持ち。さあ囃す太鼓持ちの末社連は、稲荷の末社の狐よろしく、ざわめき連れ立って入っていった。

跡あとは野分のわきの風戦かぜそよぐ、憂うきを見みに知しる黄昏時たそがれどき、お紺こんは思おもひつくづくと、辛つらい座敷ざしきを立出たちいでて

あとには野分の風がそよぐばかり。憂さを身に知る黄昏時、お紺は思いもつくづくと、辛い座敷を立ち出でて。

折角せつかく思おもひ思おもはれて、二世にせと替かはした貢みつぎさん、榊さかきさまと許嫁いひなづけの、お内儀かみさんがある其上そのうへに、福岡ふくをかの家いへや養子やうしの御身おんみ、私わたしの縁えんが切きれさへすれば、養子先やうしさきの義理ぎりも立たち、あきもあかれもせぬ仲故なかゆゑ、嫌いやでもあらうが得心とくしんして、別わかれて呉くれとのアノ叔母様をばさまがくれぐれとの御頼おんたのみ、トハ言いふものゝ是これがまア

せっかく思い思われて、二世をかけて言い交わした貢さん。榊様という許嫁のお内儀さんがある、その上に、福岡の家へ養子に入るお身の上。私との縁さえ切れれば養子先への義理も立つ。飽きも飽かれもせぬ仲ゆえ、嫌ではあろうが得心して別れてくれ、とのあの叔母様の、くれぐれものお頼み。とは言うものの、これがまあ。

一夜ひとよ流ながれの仇夢あだゆめも、数かぞへて見みれば三四歳みとせよとせを、今更いまさら別わかれ片時かたときも、浮世うきよの日影ひかげ見みられうぞ

一夜かぎりの流れの仇夢と思ったのも、数えてみれば三年四年。今さら別れて、片時なりとこの浮世の日の光が見られようか。

私わたしを誠まことの女房にようばうと、思おもふて御座ござんすなればこそ、折紙をりがみの詮議せんぎをば打明うちあけてのお頼たのみ、確たしかに奥おくの客きやくが持もつて居ゐると思おもふ故ゆゑ、帯紐おびひも解といて此身このみをまかせ、折紙をりがみを取返とりかへし貢みつぎさんへ手渡てわたして、死しぬる覚悟かくごの私わたしが橾みさを、せめては死後しごの言訳いひわけに、一筆ひとふでなりと書残かきのこさん、さうぢやさうぢや

私を誠の女房と思ってくださればこそ、折紙の詮議まで打ち明けてのお頼み。確かに奥の客が持っていると思うからには、帯紐を解いてこの身をまかせてでも、折紙を取り返して貢さんへ手渡し、そのうえで死ぬ覚悟——それが私の操。せめて死んだ後の言い訳に、一筆なりと書き残そう。そうじゃ、そうじゃ。

さゝ蟹がにの軒のきに知しらせの糸筋いとすぢも、千々ちぢの思おもひにたてどなき、筆ふでの命毛いのちげそこはかと

笹蟹——蜘蛛が軒に糸を下げれば良いことの知らせというが、その糸筋も千々に乱れる思いには筋の立てようがなく、筆の命毛の運びもそこはかとなく。

たどる貢みつぎは軒近のきちかく

道をたどって来た貢は、油屋の軒近く。

アノ唄うたは油屋あぶらやの二階にかいにて、阿波あはの客きやくが居続ゐつづけに、面白想おもしろさうに唄うたふに引換ひきかへ、今宵こよひにつゞまる折紙をりがみの詮議せんぎ、お紺こんに頼たのみ置おきたれど、今いまに否いなやの返事へんじもないは、もし岩治いはじの手てにない事ことかハテ

あの唄は油屋の二階で、阿波の客が居続けに面白そうに唄っているのか。それに引き換え、今宵に切羽つまった折紙の詮議。お紺に頼んでおいたが、いまだに諾とも否とも返事がないのは、もしや岩治の手にはないのか。はて。

何なにをがなとつおいつ、内うちにはお紺こんも筆ふでをとゞめ

何か手がかりはないかと、とつおいつ思案する。内ではお紺も筆をとどめて。

去乍さりながら今いまにも貢みつぎさんが御座ござんして、愛想尽あいそづかしを言いつたなら、深ふかい様子やうすを知しらしやんせぬ故ゆゑ、嘸さぞ憎にくいやつと恨うらまんせう、それが悲かなしい悲かなしいわいなア

さりながら、今にも貢さんがおいでになって、愛想尽かしを言ったなら、深い訳をご存じないゆえ、さぞ憎いやつと恨みなさろう。それが悲しい、悲しいわいなあ。

うすき縁えんとする墨すみも、涙なみだににじむかへす書がき

薄い縁と同じ薄墨——磨る墨も涙ににじんで、返す返す書き直す。

叔母をばが情なさけに下坂しもさかの、刀かたなは我手わがてに有あり乍ながら、アノ折紙をりがみが手てに入いらねば、左膳様さぜんさまには御切腹ごせつぷく、万次郎様まんじらうさまには尚以なほもつて、御身おんみに科とがが重かさなる道理だうり、こゝろこゝろの世よの中なかぢやなア

叔母の情けで下坂の刀はわが手にありながら、あの折紙が手に入らねば、左膳様はご切腹、万次郎様にはなおのこと、お身に科が重なる道理。ままならぬ、心々の世の中じゃなあ。

硯すずりの海うみの底深そこふかう

硯の海のように、思いは底深く。

申まうし貢みつぎさん此世このよの僅わづかの恋中こひなかも、未来みらいは必かならず女夫めをとぢやぞえ

申し、貢さん。この世ではわずかの恋仲でも、未来では必ず夫婦じゃぞえ。

お紺こんさんお紺こんさん

お紺さん、お紺さん。

アリヤ万野まんのの声こゑ

あれは万野の声。

もつれ纏まとふや伊勢いせの浜荻はまをぎ、外そとには貢みつぎが

もつれ纏いつく、伊勢の浜荻。外には貢が。

兎とに角かくお紺こんを呼出よびだし、様子やうすを聞きかんと門口かどぐちへ、立寄たちよる奥おくより

とにかくお紺を呼び出して様子を聞こうと、門口へ立ち寄ると、奥から。

お紺こんさんは何処どこにぢやへ

お紺さんはどこにじゃえ。

ヤヽアリヤ万野まんのが声こゑ

やや、あれは万野の声。

今いま逢あうては首尾しゆび悪あしと、庭口にはぐちさして忍しのび入いる

今会っては首尾が悪いと、庭口をさして忍び入る。

お紺こんさん爰ここにかいなア、モ一遍いつぺんと尋たづねて居ゐた、いや申まうし早速乍さつそくながら言いはにやならぬは、油虫客あぶらむしきやくのかす禰宜ねぎの貢みつぎづら、と言いひかけると聞咎ききとがめ

お紺さん、ここにかいなあ、もう一遍——と尋ねていたところ。いや申し、早速ながら言わずばならぬのは、油虫客の、かす禰宜の貢づら——と言いかけるのを聞き咎め。

アヽ申まうし万野まんのさん矯たしなましやんせ、さして此頃このごろ派手はでな遊あそびはなさんせずとも、馴染なじみ重かさねし主ぬしの事こと、かす禰宜ねぎの油虫あぶらむしのと、滅多めつたなことを言いひしやんすなへ

ああ申し、万野さん、おたしなみなさんせ。さしてこの頃は派手な遊びはなさらずとも、馴染みを重ねた主のこと。かす禰宜の、油虫のと、滅多なことを言いなさんすなえ。

イヱ言いいでかいなア言いいでかいなア、此この古市中ふるいちぢゆうの女郎ぢよらうさん達たちへ、口先くちさきばかりつべこべつべこべと、嬉うれしがらせてアノ性悪しやうわるな貢みつぎさん

いえ、言わずにおかりょうかいなあ、おかりょうか。この古市中の女郎さん達へ、口先ばかりつべこべつべこべと嬉しがらせて。あの性悪な貢さん。

なんとへ

なんとえ。

ホヽヽヽアヽいとしやお前まへ何なんにも知しらぬのぢやな

ほほほほ。ああ、いとしや。お前、何にも知らぬのじゃな。

ソリヤ何なにがいなア

そりゃ、何がいなあ。

ハテ方々はうばうの女郎ぢよらうを誑たらす油虫あぶらむしの貢みつぎづら、今いまも今いまとてお鹿しかさんへ度々たびたびの無心状むしんじやう、誠まことと思おもふて身みの皮かははいで打込うちこんだのが悔くやしいと、私わたしへつくづく身みの懺悔ざんげ、と懐中くわいちゆうより文殻ふみがら投出なげだし

はて、方々の女郎をたらしこむ油虫の貢づら。今も今とて、お鹿さんへ度々の無心状。誠と思って身の皮を剥いで貢いだのが悔しいと、私へつくづく身の懺悔——と、懐中から文殻を投げ出し。

コレ見みやしやんせ、これで訳わけが分わかるがナ

これ、見やしゃんせ。これで訳が分かるがな。

そんなら此文このふみもあの貢みつぎさんから

そんなら、この文もあの貢さんから。

何なんと合点がてんが行いきんしたかへ、モウモウふつゝと為ためにならぬアノ貢みつぎづらは思おもひ切きつて、岩治様いはじさまに靡なびかんせコレ悪わるい事ことはすゝめはせぬぞへ、とたきつけかける言葉ことばの端はし

なんと、合点がいきなんしたかえ。もうもう、ふっつりと、ためにならぬあの貢づらは思い切って、岩治様に靡きなんせ。これ、悪いことは勧めはせぬぞえ——と、焚きつけかける言葉の端。

どのやうに真似まねたとて、二世にせと替かはせし殿御とのごの手跡しゆせき、見違みちがへて何なんとせう、見みす見みす知しれたコリヤ偽筆ぎひつ、と言いはんとせしが成程なるほど此文このふみの様子やうすでは興きようのさめた貢みつぎさん、けふからお前まへの意見いけんについて

どのように真似たとて、二世をかけて言い交わした殿御の手跡、見違えてなんとしよう。見す見す知れた、こりゃ偽筆——と言おうとしたが、思い直して。なるほど、この文の様子では興のさめた貢さん。今日からお前の意見について。

アノ私わたしがすゝめ得心とくしんして

あの、私の勧めを得心して。

アイ岩治いはじさんに乗替のりかはる、私わたしや心こころになつたわいなア

あい、岩治さんに乗り替わる——私は、そういう心になったわいなあ。

オヽホヽヽヽアヽマアよう得心とくしんしてなア、アヽ嬉うれしやお紺こんさん大だいすき大だいすき、そんならちつとも早はやう、サア御座ござんせとせがまれて、お紺こんは詮方せんかた泣涙なきなみだ、隠かくして座敷ざしきへ出いでにける

おお、ほほほほ。ああまあ、よう得心してなあ。ああ嬉しや、お紺さん大好き、大好き。そんならちっとも早う、さあ、ござんせ——とせがまれて、お紺はせんかたない泣き涙を隠して、座敷へ出て行った。

中庭伝なかにはづたへの廻まはり縁えん、貢みつぎを目早めばやく万野まんのが見みつけ

中庭伝いの廻り縁で、貢を目ざとく万野が見つけ。

貢みつぎさん此間このあひだから度々たびたび御出おいでの噂うはさは聞きいたれど、阿波あはのお客きやくの居続ゐつづけで、とんとお紺こんさんの明あきがなし、殊ことに今日けふは芝居しばゐの初日しよにちで、お客きやくに連つれられ戻もどりは丁字屋ちやうじやで立たてぢやとの事こと、ほんにお気きの毒どくやホヽヽヽヽ

貢さん、この間から度々おいでの噂は聞いたれど、阿波のお客の居続けで、とんとお紺さんの空きがなし。ことに今日は芝居の初日で、お客に連れられ、戻りは丁字屋でまた一席じゃとのこと。ほんに、お気の毒や。ほほほほ。

そんならお紺こんはまだ戻もどらぬか、コレ万野まんのどうぞお紺こんが戻もどり次第しだい、一寸ちよつと働はたらいて呉くれぬかい

そんなら、お紺はまだ戻らぬか。これ万野、どうぞお紺が戻り次第、ちょっと働いてくれぬかい。

そりやモウお馴染なじみのお客きやくの事ことぢやによつて、どうぞして上あげたいけれど、お客きやくは阿波あはのお侍士さむらひ、むづかしいお方故かたゆゑ、お紺こんさんの居ゐなさる座敷ざしきへ、ひよつとお前まへが顔かほなど出だしてお呉くれなへ、ほんにモウ一文いちもんにもならぬお客きやくにつき合あうて居ゐるは、うつとしいものぢやのう、と愛想あいそもなげの憎体口にくていぐち、貢みつぎもむつとせし顔かほに

そりゃもう、お馴染みのお客のことじゃによって、どうぞして差し上げたいけれど、お客は阿波のお侍、気むずかしいお方ゆえ、お紺さんのいなさる座敷へ、ひょっとお前が顔など出しておくれでないぞえ。ほんにもう、一文にもならぬお客につき合っているのは、うっとうしいものじゃのう——と、愛想もない憎まれ口。貢もむっとした顔つきに。

ホヽヽヽヽ私わたしとした事ことが、心こころの底そこに思おもふ事ことをひよこすかと、貢みつぎさん必かならず気きにさへてお呉くれなへ、爰ここにお遊あそびならば誰たれぞかはりの女郎ぢよらうさんを呼よばしやんせぬか

ほほほほ。私としたことが、心の底に思うことを、ついひょいと口に出して。貢さん、けっして気に障えておくれでないぞえ。ここでお遊びなさるなら、誰ぞ代わりの女郎さんを呼びなさんせぬか。

かはりの女郎ぢよらうをよべとあればソリヤどうなりと

代わりの女郎を呼べとあれば、そりゃ、どうなりと。

そんならかはりを呼よびしやんすか、貢みつぎさんようお出でたなア

そんなら、代わりを呼びなさんすか。貢さん、よくもその言葉が出たなあ。

俄にはかに変かはるからくりの、的まとをちがひの追従口つゐしようぐち

にわかに変わるからくり仕掛け、的をはずした追従口。

マア何なににせい御酒ごしゆの支度したくをせにやならぬが、然しかしお遊あそびなさるならお腰こしの物ものと

まあ何にせよ、お酒の支度をせにゃならぬが。しかしお遊びなさるなら、お腰の物を——と。

刀かたなへかける手てを払はらひ

刀へかける手を払い。

イヤ此この腰こしの物ものは滅多めつたには

いや、この腰の物は、滅多なことでは。

お前まへも粋すゐのやうにもない、伊勢いせの茶屋ちややで腰こしの物もの預あづかるは、昔むかしからの慣習ならはし、夫それに預あづけられぬと仰有おつしやれば、此方こちらもお客きやくにやなりませぬ、早はやうおかへりと追立おひたつれば、貢みつぎは当惑たうわくさすればお紺こんに頼たのみ置おく、否いなやも知しれずとためらへば

お前も粋人らしくもない。伊勢の茶屋で腰の物を預かるのは、昔からの慣わし。それに、預けられぬとおっしゃれば、こちらもお客にはいたしませぬ、早うお帰り——と追い立てられ、貢は当惑。さりとて、お紺に頼んでおいた一件の諾否もまだ知れぬ、とためらえば。

そんなら刀かたなを預あづかりませうか

そんなら、刀をお預かりしましょうか。

サそれは

さ、それは。

お帰かへりなさるか

それとも、お帰りなさるか。

サア

さあ。

サアサアサア、せり合あふ奥おくより

さあ、さあ、さあ——と、せり合うところへ、奥から。

アモシお腰こしの物ものは私わたくしがお預あづかり申まうしませう、と立出たちいづるは料理人れうりにん

「あ、もし。お腰の物は私がお預かり申しましょう」と立ち出たのは、料理人。

ヲヽ喜介きすけか

おお、喜介か。

貢様みつぎさま居続ゐつづけのお客様きやくさまで忙いそがしうて、久ひさしうお目めにかゝりませぬ

貢様、居続けのお客様で忙しくて、久しくお目にかかりませぬ。

アヽ申まうし喜介きすけどの、そんならこなたが腰こしの物ものを

ああ申し、喜介どの。そんなら、こなたが腰の物を。

ハテあなたも元もとはお歴々れきれきのお侍士さむらひ、軽かるはづみに女子をなごの此方こちらへ、お腰こしの物ものをお預あづけはなさるまいと推量すゐりやうして、たとへ賎いやしい料理人れうりにんでも男をとこの端はしくれ、私わたくしが預あづかるハイ私わたくしがお預あづかり申まうしまする、と言いへば貢みつぎが安堵あんどの思おもひ

はて、あなたも元はお歴々のお侍。軽はずみに女子の手へお腰の物をお預けにはなるまいと推量して。たとえ賎しい料理人でも男の端くれ、私がお預かりする。はい、私がお預かり申しまする——と言えば、貢は安堵の思い。

然しからば其方そのはうに預あづける麁末そまつなきやうにと手渡てわたすを見みて

しからば、その方に預ける。粗末なきように——と手渡すのを見て。

さらばお座敷ざしきの支度したくせう、お紺こんさんの名代みやうだいはアヽ誰たれがよからうぞと

さらば、お座敷の支度をしよう。お紺さんの名代は、ああ、誰がよかろうぞ——と。

そゝくさ座敷ざしきへ立たつて行ゆく

そそくさと座敷へ立って行く。

イヤ申まうしチト私わたくしが申上まうしあげたい事ことが御座ござります、ちよつとそれへ

いや申し、ちと私が申し上げたいことがございます。ちょっと、それへ。

ムヽシテわしに用ようとは

むむ。して、わしに用とは。

喜介きすけは四辺あたり見廻みまはして

喜介はあたりを見回して。

今いま改あらためて申上まうしあぐるも如何いかがなれど、私わたくしが親共おやどもはあなたの御親父様ごしんぷさまへ、中間奉公ちゆうげんぼうこう致いたした身みの上うへ、親旦那様おやだんなさまの御浪々ごらうらう、此この志州ししうの鳥羽とばへお逼塞ひつそくの身みと、おなりなされしその後のちに、父親ちちおやめも此この伊勢路いせぢに引移ひきうつり、世よを送おくる年月としつきも、老病らうびやうの枕元まくらもとへ私わたくしを呼よび、アノ福岡孫太夫様ふくをかまごだいふさまの御養子ごやうし貢様みつぎさまは、われわれ親子おやこが故主こしゆうの若旦那わかだんな

今改めて申し上げるのもいかがなれど、私の親どもは、あなたのご親父様へ中間奉公いたした身の上。親旦那様がご浪々の身となり、この志州鳥羽へご逼塞なされたその後に、父親めもこの伊勢路へ引き移って世を送るうち、年月を経て、老いの病の枕元へ私を呼び——あの福岡孫太夫様のご養子の貢様は、われわれ親子の旧主の若旦那。

随分ずゐぶんともに蔭かげながら心こころをつけ、忠義ちゆうぎをつくせと末期まつごの遺言ゆゐごん

随分と蔭ながら心をつけ、忠義を尽くせ——との末期の遺言。

コリヤあなたにも御存ごぞんじの事こと、しかし毎晩まいばんこゝへ御出おいであれば、御身おんみに禍患くわくわんまねく道理だうり、モシ若旦那わかだんな料理人れうりにんづれの私わたくしが、洒落しやらくさいこと言いおると、思召おぼしめしも御座ござりませうが、随分ずゐぶん御身おんみを大切たいせつに、叔母御様をばごさまへ御苦労ごくらうをかけぬやう、養やしなひ親御おやごを御大事おだいじに、どうぞなされて下くだされませと、涙なみだながらに言述いひのぶる、思おもひは厚あつき俎板まないたに、立たつる忠義ちゆうぎのまな箸ばしや、切目きりめ正ただしき意見いけんぞと、貢みつぎは殆ほとんど感かんじ入いり

これは、あなたもご存じのこと。しかし毎晩ここへおいでになれば、お身に禍を招く道理。もし若旦那、料理人ふぜいの私がしゃらくさいことを言いおる、との思し召しもございましょうが、随分とお身を大切に、叔母御様へご苦労をかけぬよう、養い親御をお大事に、どうぞなされてくださいませ——と涙ながらに言い述べる。思いは厚い俎板に、立てる忠義のまな箸や、切り目正しい意見ぞと、貢はほとほと感じ入り。

ハヽア頼たのもしい此方こなたの意見いけん、その心底しんていを存ぞんじ居をる故ゆゑ、只今ただいま預あづかる一腰ひとこしは、我わが故主こしゆうの大殿おほとのより、若殿わかとの万次郎様まんじらうさまへ求もとめ下くだれと厳命げんめいありし青江下坂あをえしもさか

ははあ、頼もしいこなたの意見。その心底を存じているゆえ打ち明けるが、ただいま預けた一腰は、わが旧主の大殿より、若殿万次郎様へ求めてまいれと厳命のあった、青江下坂。

ヱヽ左様さやうなら此この一腰ひとこしが

ええっ。それなら、この一腰が。

サア叔母をばじや人ひとの厚志こうしにて手てに入いりしが、万次郎様まんじらうさまが若気わかげの誤あやまりに折紙をりがみをかたり取とられ、其その詮議せんぎのため夜毎よごと夜毎よごとの郭通くるわがよひ、あながち放埓はうらつといふ訳わけではない、と言いひつゝ喜介きすけに

さあ、叔母じゃ人の厚志で手に入ったが、万次郎様が若気の誤りで折紙をかたり取られ、その詮議のため夜ごと夜ごとの廓通い。あながち放埓というわけではないのだ——と言いつつ、喜介に。

ナナと囁ささやけば

なになに、と囁けば。

ムヽその折紙をりがみを衒かたつた奴やつが此この油屋あぶらやへ

むむ。その折紙をかたり取った奴が、この油屋へ。

アコレ

あ、これ——声が高い。

サアヤアトヤ夜よさの泊とまりはどこが泊とまりぞ

「サアヤアトヤ、今夜さの泊まりは、どこが泊まりぞ」。

草くさを敷寐しきねの肱枕ひぢまくら肱枕ひぢまくら

「草を敷き寝の肱枕、肱枕」。

今宵こよひは殊更ことさら人目ひとめも繁しげく、首尾しゆびする迄までは

今宵はことさら人目も繁い。首尾よく運ぶまでは。

奥座敷おくざしきで

奥座敷で。

貢みつぎさま

貢さま。

喜介きすけ

喜介。

斯かうお出いでなされませ

こちらへ、おいでなされませ。

雨あめの降夜ふるよは一ひとしほ床ゆかし

雨の降る夜は、ひとしお床しい。

始終しじゆうを窺うかがふ北六きたろく万野まんの、次郎介じろすけ連立つれだちぬつと出いで

一部始終を窺っていた北六と万野、次郎介が連れ立って、ぬっと現れ。

北六きたろくさん今いまの様子やうすを

北六さん、今の様子を。

お聞ききなされましたか

お聞きなされましたか。

さればされば天てんの与あたへの今宵こよひの首尾しゆび、貢みつぎのさしたアノ刀かたなが

さればされば。天の与えの今宵の首尾。貢の差していたあの刀が。

尋たづぬる青江下坂あをえしもさかとは

探し求める青江下坂とは。

シツ窃々ひそひそ

しっ——ひそひそ。

奥おくでは見立みたての智恵ちゑくらべ

奥では、趣向の見立ての知恵くらべ。

ほんによい智恵ちゑはないかいなア

ほんに、よい知恵はないかいなあ。

智恵ちゑはないか

知恵はないか。

智恵ちゑはないか

知恵はないか。

中々なかなかちよつくらちよつとした事ことで、アノ下坂しもさかはちよろまかされぬ

なかなか、ちょっくらちょっとしたことでは、あの下坂はちょろまかされぬ。

所ところで智恵ちゑが御座ござんする

ところで、ここに知恵がござんする。

智恵ちゑがあるとはコリヤ豪えらい

知恵があるとは、こりゃ豪い。

シテその智恵ちゑはどうぢやいなどうぢやいな

して、その知恵はどうじゃいな、どうじゃいな。

大事だいじのお客きやくの言付いひつけと、喜助きすけに料理れうり言付いひつけて、其間そのまに此方こちらへ下坂しもさかを、ちよつくらちよのちよいとひん盗ぬすむ

大事のお客の言いつけじゃと、喜助に料理を言いつけて、その間にこちらへ下坂を、ちょっくらちょのちょいと、ひん盗む。

それから跡あとはどうしやる

それから後は、どうしやる。

どうぢやいな

どうじゃいな。

私わたしは当分たうぶん欠落かけおちぢや

私は当分、欠落——姿隠しじゃ。

われらもこつそり国くにに行ゆく

われらも、こっそり国へ行く。

所ところへ刀かたなを持もつて行ゆき、褒美はうびのお金かねをたんと貰もらひ、楽隠居らくいんきよとはどでごんす

そこへ刀を持って行き、褒美のお金をたんと貰って、楽隠居——とは、どうでごんす。

然しかしさううまくゆけばよいが

しかし、そううまくゆけばよいが。

ハテ案あんじなんすなマア奥おくへ

はて、案じなんすな。まあ、奥へ。

来きやれ

来やれ。

踊をどり狂くるふて入いるあとへ

踊り狂って入ったあとへ。

立出たちいづる徳島岩治とくしまいはじ

立ち出る徳島岩治。

ハヽヽヽヽヽあいらが寄よつて馬鹿ばかつくす、其間そのまに一寸ちよつとちよろまかし、貢みつぎが預あづけし此この下坂しもさか、身共みどもが帯たいした此この刀かたなの寸尺すんしやくと、丁度ちやうど合あうたは幸さいはひ幸さいはひ、独ひとりにこにこ鼻唄はなうたに

はははは。あいつらが寄って馬鹿をつくしている、その間にちょっとちょろまかした。貢が預けたこの下坂、身共が帯びていたこの刀の寸尺と、ちょうど合ったのは幸い、幸い。ひとり、にこにこと鼻唄まじりに。

あまり辛気しんきくさゝに、棚たなの達磨だるまさんを一寸ちよつとおろし、うまいな、鉢巻はちまきよさせたり転ころがしても見みたり

あまりの辛気くささに、棚の達磨さんをちょっと下ろし、「うまいな」と、鉢巻をさせたり転がしてもみたり。

ハヽヽヽヽ先まづは目釘めくぎも首尾しゆびよく抜ぬけたは、身みが差料さしれうの此この新刀しんたうと、此この青江下坂あをえしもさかと真しんをすつぱり、ちよいと程ほどよく柄釘つかくぎよ抜ぬいたり、取替とりかへても見みたり

ははは。まずは目釘も首尾よく抜けた。身共の差料のこの新刀と、この青江下坂と、中身をすっぱり——ちょいと程よく柄釘を抜いたり、取り替えてもみたり。

妙々めうめうしつくり鞘さやへおさまつた、にこはこ笑壷ゑつぼの徳島とくしまが、一間ひとまへこそは入いりにける

妙々、しっくり鞘へ納まった。にこにこ、笑壷に入る徳島が、一間へと入っていくのであった。

この曲は常磐津。詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第四編 常磐津集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開し、合方の指示は省いた。

詞は瀬川如皐。資料の目次には題名に括弧書きで「お紺貢」と添えてある。作曲者・初演年は原典に記載がない。曲名の読み「かみじやまうきなのこいぐち」は原典のふりがなによる。神路山は伊勢神宮の内宮のうしろにそびえる山、「琫」は刀の鞘の口もとの飾り金具。曲名からして、伊勢と刀の一曲である。

題材は歌舞伎『伊勢音頭恋寝刃』でおなじみの、伊勢古市の油屋の一件。遊女お紺、御師の福岡貢、遣手の万野、料理人の喜介(芝居では喜助と書く)、名刀青江下坂とその折紙など、顔ぶれも道具立ても共通する。ただしこの詞章は岩治が刀の中身をすり替えるところまでで曲を納め、油屋の惨劇そのものは語らない。

青江下坂は名刀の呼び名。折紙は本阿弥家の出す鑑定書で、刀と折紙がそろってはじめて役に立つ。貢の夜ごとの廓通いは放埓ではなく、かたり取られた折紙の詮議のためである。折紙が手に入らねば左膳様は切腹、万次郎様の科も重なると、詞章のなかで語られる。

「備前杉本油屋」は伊勢古市の妓楼、備前屋・杉本屋・油屋を並べたもの。丁字屋も古市の茶屋の名。朝熊山は伊勢の名所。「くるはお客」は郭(くるわ)と「来るは」の掛詞。

万野の身の上語りは、吉原から深川仲町・石場、品川・神奈川・大磯と、江戸とその周辺の遊里を流れ渡った経歴を並べる。「今では年も古市に」は、年古ると古市の掛詞。

「入山形に二ツ星」は遊女評判記で最上級の遊女に付けた記号。「引四ッ過の火の用心さつしやりませう、二階を廻らしやりませう」は、吉原で夜回りが触れて歩いた文句。

座敷の俄は柴又の帝釈様(帝釈天)参りの道中話。「南無からたんのう」云々は門付けの坊主の唄のもじりで、「稲妻ごろごろ雷神ぴかぴか、蚊帳よ嬶釣れ臍立て線香隠せ」は、慌てて言葉があべこべになるのを笑う趣向。「万歳楽」は雷除けの唱え言葉。

「黄粉餅」「幾世餅」「あんころ餅」「お金持」は餅尽くしの地口。幾世餅は江戸両国の名物餅。「末社」は幇間(太鼓持ち)のことで、稲荷の末社の縁で「友狐」と受けている。

「さゝ蟹」は蜘蛛の古名。蜘蛛が軒に糸を下げるのを人の来る知らせとする俗信による。「伊勢の浜荻」は「難波の葦は伊勢の浜荻」のことわざによる言い回し。「憂を見に知る」の「見」は「身」の当て字で、原典のまま残した。

「油虫」は揚代を払わずただで居続ける客をいう廓の悪口。貢を「かす禰宜」と呼ぶのは、伊勢の御師(神職)の身分を踏まえた悪口である。

「サアヤアトヤ夜さの泊りはどこが泊りぞ、草を敷寐の肱枕」は伊勢音頭(道中唄)の文句。

「死ぬる覚悟の私が橾」の「橾」は原典の用字。「操」の意と見て読みを付け、字は改めていない(主誰糸春雨にも同じ用字がある)。「折紙をかたり取れ」は文意から「かたり取られ」と読み、字は原典のままにした。「洒落さいこと」は「しゃらくさいこと」と読んだ。「戻りは丁字屋で立ぢや」の「立」は宴席の意と見て「たて」と読んだが、確かめられていない。

治郎介と次郎介、喜介と喜助は、いずれも原典の表記のゆれ。改めずそのままにした。

語義の定めがたい語は、推測で埋めず原典のまま残した。「少びんながら」「ゑんり江戸町」「つばらんだア」「隣のかみさん是者ぢや」「稲妻さきてに」「思ふ事をひよこすかと」「イヨ大和屋ア」(万野をはやした掛け声と見えるが、大和屋が何を指すかは定めがたい)。

流儀・稽古本によって仮名遣いや字句に異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。