藤舎の紋 藤舎名玄TOSHA MEIGEN ― 詞章ライブラリーへ戻る
長唄

犬神いぬがみ

作詞者・作曲者・初演年不詳  本名題「恋罠奇掛合」(こひのわなてくだのかけあい)  資料の題名『恋罠奇掛合』

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犬神 野の犬と狐
野の犬と狐

犬神と野干(狐)が、たがいに親の仇を負って争う掛合の曲。狐は玉藻前ゆかりの姿を借りて現れ、犬神は忠犬の故事を負って立ちはだかる。最後は顔見世の祝言で納まる。

あらすじ

蠅のように営み狗のように恥を忘れると韓非の書に載せられた、その浅ましさをこの身に受けている。我も北斗を拝しては心のままに姿を映す池の水鏡、玉藻を被いて梳るその通力も、名香の薫りに恐れてたちまち本性を現し、見るも恐ろしい野干の姿となった。はかない我が身よ。野末の草の葉隠れに、葛の恨みは恨めしく、親の仇をうつつにも夢にも忘れるすべなく、泣き明かしてくよくよと、焦れて燃える狐火は炎となって去りやらぬ。煩悩の犬をどうしよう、絆につながれ纏いつかれ、伏しても寝ても執着は去らない。我は化けたとその面影を慕うにあまる口惜しさ、報いようと立ち寄れば、毛衣をさっと振り乱し、鋭い眼で息巻いて、寄らば喰わんという勢い。ぱっと飛び退き振り返れば、ええ言い甲斐もない涙の雨がはらはらと。日を追ってこんな憂き事のない身であったなら、花を飾り身を繕って嫁入り嫁入りと里の子に囃し立てられ、しっぽりと露のかことを草枕、ひとり葎の床の内。眠ろうとすれば犬塚がちゃっと起き立ち、尾花のように身を振る。こちらは尾を巻いて窺い寄り、寄せまいと哮れば飛び退いて、瞋恚の剣、憤怒の牙を研ぎ立てて挑み合う。親と別れたその場から所を定めずうろうろと、恋しく慕わしい思いは人間の百倍も胸に重なる。仇も報いも白真弓、犬追物や鼠罠、かかるも知らぬ輪廻に引かれ引かれて。それでも親の恨みの笞と、菊をつと取って打ってかかれど寄せつけず。貞女を守る張然犬、揚清季信の犬とてもこうではあるまいと耳を逆立て吼えれば、叫んで駆け向かい、追いつ返しつのその風情。去のうやれ我が故郷へ、戻ろうやれ——その名を玉と立ちかかるのを、頼賢がやるまいと引き止める。千枝狐が帰り咲き、姿の花や六の花、木ごとの花の顔見世は、めでたい次第であった。

詞章と現代語訳

〔上るり〕

蠅営ようえいたる狗苟くこうと、韓非かんぴに載のせられし、巻尾けんびけんてい自みづから、此身このみにうけて浅あさましや

蠅のように利を求め、狗のように恥を忘れると韓非の書に載せられた——その尾を巻いて憐れみを乞う浅ましさを、自らこの身に受けていることよ。

〔歌〕

我われも北斗ほくとを拝はいしては、心こころの儘ままに姿すがたをも、うつすや池いけの水鏡みづかがみ、かつぐ玉藻たまもに梳けづる、其その通力つうりきも忽たちまちに

我もまた北斗を拝しては、心のままに姿を変える。池の水鏡に映して、玉藻を被いて髪を梳るその通力も、たちまちに——。

蘭奢らんじやの香かうの馥郁ふくいくと、薫かをりに恐おそれ本性ほんしやうを

蘭奢待の香の馥郁と薫るのに恐れて、その本性を。

見みるにはこはさも忍しのばれず、野干やかんの形かたちあらはせし

見るにも恐ろしく、こらえきれずに野干——狐の姿を現したのであった。

はかな己おのが有様ありさまや

はかない我が身の有様よ。

野末のずゑの草くさの葉はがくれに、葛くずの恨うらみの恨うらめしく、親おやの讐かたきをうつつにも、夢ゆめにも忘わすれやるかたも、泣ないてあかしてくよくよと、焦こがれて燃もゆる狐火きつねびは

野末の草の葉隠れに、葛の葉裏を返すような恨みが恨めしく、親の仇はうつつにも夢にも忘れるすべがない。泣いて夜を明かしてはくよくよと、焦がれて燃える狐火は。

ほむらと成なりて去さりやらぬ、煩悩ぼんなうの犬いぬに如何いかにせん、絆きづなにつながれ纏まとはれて、伏ふして見み寝ねて見み執着しふぢやくの尚なほ去さりやらぬ思おもひにより

炎となって消えやらぬ。煩悩の犬をどうしたものか。絆につながれ纏いつかれ、伏してみても寝てみても執着はなお去らない、その思いによって。

我われは化ばけたと俤おもかげを、慕したふにあまる口惜くちをしさ、報むくはんものと立たちよれば

我は化けたのだと、その面影を慕うにあまる口惜しさ。報いてやろうと立ち寄れば。

毛衣けごろもさつと振乱ふりみだし、眼まなこ鋭するどに息いきまきし、寄よらば喰くはん勢いきほひに

毛衣をさっと振り乱し、眼を鋭く息巻いて、寄らば喰らわんという勢いに。

ぱつと飛とび退のき振返ふりかへり、エヽ言いひ甲斐がひもなき、涙なみだの雨あめのはらはらとはつと、日ひに添そひてかかる憂うき事ことなき身みぞならば、花はなを飾かざりて品しな繕つくろふて

ぱっと飛び退いて振り返る。ええ、言い甲斐もない——涙の雨がはらはらと。日を追ってこんな憂き事のない身であったなら、花を飾り身を繕って。

嫁入よめいり嫁入よめいり里さとの子こに、囃はやしたてられしつぽりと、露つゆのかごとを草枕くさまくら、独ひとり葎むぐらの床とこの内うち

「嫁入り、嫁入り」と里の子に囃し立てられ、しっぽりと——けれど今は露のかこちごとを草枕に、ひとり葎の茂る床の内。

寝ねむるとすれど犬墳いぬづかの、ちやつと起立おきたち身みをふる尾花をばな

眠ろうとすれば犬塚がちゃっと起き立ち、尾花が身を振るように尾を振り立てる。

此方こなたは尾をを巻まき覗うかがひ寄よる

こちらは尾を巻いて、窺いながら寄ってゆく。

寄よせじと哮たければ

寄せまいと哮れば。

飛退とびのいて瞋恚しんいの剣つるぎ

飛び退いて、瞋恚の剣。

憤怒ふんぬの牙きば

憤怒の牙。

研立とぎたて

研ぎ立てて。

研立とぎたていどみあふ親おやの別わかれの其その場ばより、所ところ定さだめずうろうろと、恋こひし床ゆかしはさながらに

研ぎ立てて挑み合う。親と別れたその場から、所も定めずうろうろと——恋しく慕わしい思いは、そのまま。

人間にんげんよりも百倍ひやくばいの、思おもひ重かさなる胸むねの内うち

人間よりも百倍も、思いの重なる胸の内よ。

仇あだも報むくいも白真弓しらまゆみ、犬追物いぬおうものや

仇も報いも白真弓を引くように——犬追物や。

鼠罠ねずみわなかかるも知しらぬ輪回りんゑにひかれ

鼠罠にかかるとも知らぬ輪廻に引かれ。

ひかれひかれて

引かれ、引かれて。

爾さは言いへ親おやの恨うらみのしもと、菊きくをつとつて打うつてかかれど

そうは言っても親の恨みの笞——菊をつと取って打ってかかるけれども。

寄よせつけず、貞女ていぢよを守まもる張然ちやうぜん犬けん、揚清やうせい季信きしんが犬いぬとても、かくは非あらじと耳みみ逆立さかだて吼ほゆれば

寄せつけない。貞女を守ったという張然の犬も、揚清・季信の犬であっても、これほどではあるまいと、耳を逆立てて吼えれば。

叫さけんで駆向かけむかひ

叫んで駆け向かい。

追おつ

追いつ。

返かへしつその風情ふぜい、去いのうやれ我わが故郷ふるさとへ戻もどろやれ

返しつ、そのさま。去のうやれ、我が故郷へ戻ろうやれ。

その名な玉たまをと立たちかかるを、頼賢らいけんやらしと引止ひきとむる

その名も玉をと立ちかかるのを、頼賢がやるまいと引き止める。

千枝狐ちえぎつねが帰かへり咲ざき、姿すがたの花はなや六むの花はな、木毎きごとの花はなの顔見世かほみせは、目出度めでたかりける次第しだいなり

千枝狐が帰り咲き、姿の花や六つの花——木ごとの花の顔見世は、めでたい次第であった。

詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第二編 長唄集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開し、合方〔合〕の指示は省いた。資料の題名は『恋罠奇掛合』。

犬神と野干(狐)が親の仇を負って争う掛合の曲。狐の側は「かつぐ玉藻」と名乗り、玉藻前と同じ狐の系譜に立つ。顔見世の狂言として作られたため、最後は祝言で納まる。

「蠅営狗苟」は蠅のように利にたかり、狗のように恥を忘れることをいう。原典は韓非の書に載るとするが、この語は韓愈の文に見える。原典の表記のままとした。

「野干」は狐の異名。仏典に見える獣の名で、狐に当てて用いる。

「蘭奢」は名香 蘭奢待。妖しいものは名香を恐れて正体を現すという趣向。

「葛の恨み」は葛の葉が風に裏を見せることから「裏見」に「恨み」を掛ける。信太の狐 葛の葉の物語も響かせる。

「犬追物」は馬上から犬を追って矢を射る武芸。「白真弓」は「引く」に掛かる枕詞。

「瞋恚」は仏語で怒りのこと。

「六の花」は雪の異名。「木毎の花」は「木」と「毎」を合わせて「梅」の字とする言葉遊び。

「巻尾けんてい」「張然犬」「揚清季信が犬」「頼賢」「千枝狐」は原典のままとした。忠犬の故事や登場人物の名と思われるが、典拠が定かでない。「千枝狐」の読みは推定による。

本名題の読みは原典の記載による。作詞者・作曲者・初演年は原典に記載がない。流儀・稽古本によって仮名遣いや字句にも異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。