藤舎の紋 藤舎名玄TOSHA MEIGEN ― 詞章ライブラリーへ戻る
長唄

新曲浦島しんきょくうらしま

坪内逍遥 作  杵屋六左衛門・杵屋勘五郎 節付

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新曲浦島 竜宮の別れ
竜宮の別れ

坪内逍遥の楽劇「新曲浦島」(明治三十七年刊)序之幕から、長唄用に編まれた一節。唐土の帰墟の伝えから澄の江の浦の秋の海景へ、末は夕嵐の船唄で結ぶ。

あらすじ

寄せては返す神代ながらの浪の音は、はるかな世への導きである。かの渤海の東、幾億万里、底知れぬ壑があり、名づけて帰墟という。八紘九野の水も天の川の流れも注ぎ尽くして増えも減りもしないという唐土の聖人の寓言を、いま目の前のはるかな大海原に見る。北を望めば渺々と、水と空の見分けもつかない沖つ浪。三下りからは秋の磯辺——轟く浪が岩に砕け、朝に洗う高麗の岸、夕陽の沈むあたりは夜の殿、錦繍の帳の暮れゆく中空に誰の釣舟か玻璃のともしびが揺れる。裾の紫が褪せてまた染め返る空模様、一つ星、雲の袖のほころび、しづ心なき秋の風雲。海人の小舟は帰りを急ぐ櫓拍子、「雨よ降れ降れ、風なら吹くな、家の主爺は舟子ぢや」の船唄に雁が音も乱れて、岩波さわぐ夕嵐のすさまじい風情である。

詞章と現代語訳

〔大薩摩〕

寄よせ返かへす神代かみよながらの浪なみの音おと、たよりの世よ遠とほきしるべかな

寄せては返す、神代から変わらぬ浪の音。それは、はるかに遠い世への導きである。

それ渤海ぼつかいの東ひがし、いく億万里おくまんり、底そこひも知しられぬ壑たにあるを、名なづけて帰墟ききよといふとかや

そもそも渤海の東、幾億万里のかなたに、底も知れない壑があって、名づけて帰墟というのだそうだ。

八紘九野はつくわうきうやの水みづ尽つくし、空そらに溢あふるる天あまの川かは、流ながれの限かぎり注そそげども、無増無減むぞうむげんと唐土もろこしの聖人ひじりが寓言ぐうげん、今いまこゝに見みる目めもはるけき大海原おほうなばら

天下の八方九野の水を尽くし、空に溢れる天の川が流れの限り注いでも、増えも減りもしない——という唐土の聖人の寓言のとおりの、いま目の前に見るはるかな大海原である。

北きたを望のぞめば渺々べうべうと、水みづや空そらなる沖おきつ浪なみ、けぶるみどりの蒼茫さうばうと(この後、沖の帆影から蓬莱の島々に及ぶ数句は、原本の判読が困難なため省く)

北を望めばはてしなく、水とも空とも見分けのつかない沖つ浪。煙るみどりの蒼茫のなかに——。

〔三下り〕

日ひのうらら秋あきさびて、磯辺いそべに寄よする轟とどろ浪なみ、岩いはくだけて散ちる水みづの白しろく、旦あしたに洗あらふ高麗こまの岸きし、夕陽ゆふひもそこに夜よるの殿との、錦繍きんしうのとばり暮くれ行ゆく中空なかぞらに、誰たれが釣舟つりぶねの玻璃はりのともしび

うららかな日も秋めいて、磯辺に寄せる轟く浪。岩に砕けて散る水しぶきは白く、朝ごとに波の洗う高麗の岸。夕陽の沈むあたりはそのまま夜の御殿で、錦繍の帳のような夕焼けが暮れてゆく中空に、誰の釣舟のものか、玻璃のともしびがひとつ。

裾すその紫色むらさきいろあせて又また、染そめかへる空そらもやう、時ときの間まよ一ひとツ星ぼし、雲くもの袖そでのほころび見みせて、斑むらぐもり、しづ心こころなき風雲かぜくもや

空の裾の紫色が褪せては、また染め返す空模様。ほんの時の間に一つ星が、雲の袖のほころびから見えて、また斑曇り。落ち着く心のない、秋の風と雲であることよ。

海人あまの小舟をぶねのとりかぢも、帰かへりをいそぐ櫓拍子ろびやうしに、〔唄〕雨あめよ降ふれ降ふれ、風かぜなら吹ふくな、家いへの主爺おやぢは舟子ふなのりぢや

海人の小舟は舵を取り、帰りを急ぐ櫓拍子。「雨よ降れ降れ、風なら吹くな、うちの親爺は舟乗りだ」と唄う。

吹ふきまぜる船唄ふなうたに、かりがねの一声ひとこゑも乱みだれて、浦うらの門とは岩波いはなみさわぐ夕ゆふあらし、すさまじかりける風情ふぜいなり

風に吹き交ぜられる船唄に、雁の一声も乱れて、浦の入り口は岩波の騒ぐ夕嵐。すさまじいばかりの風情である。

この曲は詞章の出典が他と異なる。純邦楽詞章集に立項がないため、『長唄撰集』第二編(大正十四年・長唄会編・著作権消滅)所収の本文(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵本)により、繰り返し記号は読みやすく展開した。坪内逍遥『新曲浦島』初版本(明治三十七年刊・同館所蔵)の活字本文と照合し、共通する句の読みを確かめている。

原本は木版の行書体で、判読の難しい箇所がある。第四段の「蒼茫と」以下、沖の帆影から蓬莱の島々に及ぶ数句は読み切れないため省略し、そのほか「たよりの世遠き」「散る水の白く」「とりかぢも」などにも推定を含む。お手元の稽古本と必ず照合されたい。

「新曲浦島」は坪内逍遥が明治三十七年(一九〇四)に発表した楽劇。ここに掲げたのは序之幕(澄の江の浦)から長唄用に編まれた部分で、楽劇全体はこの後、竜宮・帰郷へと続く。

「帰墟」は『列子』湯問篇に見える、渤海の東にあって諸水の注ぎ込む底なしの谷。八紘九野の水も天の川もここに注ぐが増えも減りもしないといい、その中に不老の仙人の住む山々——蓬莱などがあるとされる。浦島の竜宮への導入として引かれている。

「高麗の岸」は西の海のかなたの岸。「玻璃」は水晶・ガラスのこと。

「しづ心なき」は落ち着いた心のない意。古歌「久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」を踏まえた措辞。

「雨よ降れ降れ」の船唄は原作の楽劇にもそのまま見える漁師の唄。

流儀・稽古本によって字句にも異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。