戻橋もどりばし
常磐津 河竹黙阿弥 述 本名題『戻橋恋角文字』 作曲者・初演年不詳

一条戻橋で渡辺綱が出会った美しい女は、愛宕山に棲む悪鬼の化けた姿だった。水鏡に映った影から正体を見破られ、鬼は本性をあらわして綱を宙へ引き上げる。綱は髭切の太刀でその腕を切り落とす。
あらすじ
都に悪鬼があらわれて人をとり、夜は往来も絶えた。内裏の警固に上京した源頼光は、かねて言い交わした維仲卿の姫君へ便りもできずにいる。その使いに立った渡辺綱が帰る道、卯の花が白々と咲き、月の照る堀川の早瀬が落ち合う、水音の凄まじい戻橋にさしかかる。綱は主君から路次の用意にと髭切の太刀を賜っており、一刻も早く帰って返事を届けようとする。そのとき青嵐が岸の柳を鳴らし、振り返ると女がひとり来る。妖怪の噂で男さえ通らぬ夜に女が歩くのはいぶかしい——さては我らを威そうと妖怪が姿を変えて来たか、幸い討ち取って主君への土産にしようと、綱は郎党に囁いて木蔭に身を隠す。女は雨雲の蔭から漏れる月を頼りに、被衣に身を忍ばせて大路をたどり、戻橋にたたずむ。綱が姿をあらわし、五条まで送ろうと申し出て連れ立つうち、雲が晴れて月の光に顔を見合わせる。あでやかな——と見た綱は、水に映った影に気づいて息をのむ。愛宕山を望み、時鳥の初音を聞き、道々語らううちに打ち解けて、女は五条の扇折の娘と名乗り、請われて扇を借りて一さし舞う。花から青葉へ移る四季を舞い納めると、女は綱に妻の有無を尋ね、縁を結びたいと訴える。綱が身分違いだと退けると、女はあなたは渡辺源氏綱どのゆえと名を口にしてしまう。名を知るのは妖魔の術であろう、月の光に映った影は鬼形であったぞ——星を指されて女は忽ち憤怒の相をあらわし、我は愛宕の山奥に幾年も棲んで神通力を得た悪鬼であると名乗る。連れ行こうとする鬼と、生け捕ろうとする綱。一天にわかに掻き曇り、黒雲が覆いかぶさって綱の襟上をつかみ、砂石を飛ばす暴風とともに虚空へ引き上げる。綱は髭切の太刀を抜き放って鬼の腕を切り払った。腕はどっと北野の回廊に落ち、悪鬼は群がる雲に隠れ、光を放って消え失せた。
詞章と現代語訳
夫れ普天の下卒土の浜、王土にあらぬ所なきに、何国に妖魔の棲けるか、睦月の頃より洛中へ、悪鬼顕れ人をとり、夜は往来の人もなし
そもそも天の下、地の果てまで、帝の御領でない所はないというのに、どこに妖魔が棲みついていたのか。正月のころから都の内に悪鬼があらわれて人をさらい、夜はもう往来する人もない。
去ば内裡の警衛に、都登りし源の、頼光朝臣は暇なく、去頃深く語らひし、維仲卿の姫君へ、便りもなさで在せしが
そこで内裏の警固のために都へ上った源頼光朝臣は暇もなく、先ごろ深く言い交わした維仲卿の姫君へ、便りもできずにおられたが。
今日しも渡辺源氏綱、使に立し帰り道、卯の花咲て白々と、月照渡る堀川の、早瀬の流れ落合ひて、水音凄まじき戻橋
今日しも渡辺源氏の綱は、その使いに立った帰り道。卯の花が白々と咲き、月の照りわたる堀川の早瀬が落ち合って、水音の凄まじい戻橋にさしかかった。
武威逞しき我君も、恋は心の外にして、兼々語らひ給ひたる、維仲卿の姫君へ、密々の仰せ蒙りて、路次の用意に御秘蔵の、髭切の太刀賜はりしは、武門の誉身の面目、片時も早く立帰り、彼の御方の御返事を、我君へ申上げん
武威の逞しい我が主君も恋は心のままにならぬもの。かねて言い交わされた維仲卿の姫君へ、内々の仰せを承って使いに立ち、道中の用意にと御秘蔵の髭切の太刀を賜ったのは武門の誉れ、身の面目である。一刻も早く立ち帰って、あのお方の御返事を主君へ申し上げよう。
夜更ぬ内にと主従が、行んとなせし後より、一吹き落す青嵐に、岸の柳の騒がしく、心ならねば振返り
夜の更けぬうちにと主従が行こうとしたその後ろから、一吹き吹き落とす青嵐に岸の柳が騒がしく鳴る。心にかかって振り返り。
ハテ心得ぬ、妖怪出る取沙汰に、夜に入りては表を閉し、男子すら通行せぬに、女子の来るはいぶかしし
「はて、合点がゆかぬ。妖怪が出るという噂で、夜に入れば表の戸を閉ざし、男でさえ通らぬというのに、女が来るとはいぶかしい」
扨は我等を威さんと、姿を変て妖怪が、爰へ来ると覚えたり、幸なるかな打取つて
「さては我らを威そうと、妖怪が姿を変えてここへ来るものと見えた。幸いなことよ、討ち取って」
君へ土産にまゐらせん
「主君への土産に差し上げよう」
二人の者にうち囁き
供の二人にうち囁き。
機密を授け退けて
手はずを授けて下がらせる。
己れ妖怪ごさんなれ
「おのれ、妖怪であるな」
太刀引そばめほの暗き、木下蔭へぞ入にける
太刀を脇に引き寄せて、ほの暗い木蔭へ身を隠したのであった。
又叢立ちし雨雲の、蔭もる月をよすがにて
また群がり立った雨雲の蔭から漏れる月を頼りにして。
たどる大路に人影も、灯影も見えず我影を、若や人かと驚きて、被衣に身をば忍ぶ摺、けふの細布ならずして、女子心に胸合ず、思ひ悩みて来りける
たどってゆく大路には人影も灯りの影も見えず、自分の影さえもしや人かと驚いて、被衣に身を忍ばせる——その忍ぶ摺の乱れ模様のように、狭布の細布ではないが胸も合わぬ女心で、思い悩みながらやって来たのだった。
卯月の空の定めなく、降ぬ内にと思へども、爰は一条の戻橋、見れば往来ふ人もなく
四月の空は定めなく、雨の降らぬうちにと思うけれど、ここは一条の戻橋。見れば行き交う人もなく。
アア便りにもなやと佇みて、暫し休らひ居たりける
「ああ、たよりにもならぬこと」とたたずんで、しばらく休らっていたのであった。
綱は小蔭を立出でて
綱は木蔭から立ち出でて。
女性は何れへ参られるぞ
「女性はどちらへ参られるか」
妾は一条の大宮より、五条のわたりへ参りまするが、唯一人故夜道が恐く、爰に佇み居りました
「わたくしは一条の大宮から五条のあたりへ参りますが、ただ一人ゆえ夜道が恐ろしく、ここにたたずんでおりました」
恐いと申すは尤もなり、五条のわたりへ参るとあらば、某送つて遣はさう
「恐ろしいと申すはもっとも。五条のあたりへ参るというなら、それがしが送ってつかわそう」
御詞に従ひますれば、お伴ひ下さりませ
「お言葉に従いますゆえ、どうぞお連れくださりませ」
折から空の雲晴て、月の光に見かはす顔
折から空の雲が晴れて、月の光に見交わす顔。
ハテあでやかな
「はて、あでやかな」
水に写りし影を見て
水に映った影を見て。
ヤヤ今水中へ映りし影は
「やや、いま水の中へ映った影は」
エエ
「ええ」
夜更ぬ内にいざとくとく
「夜の更けぬうちに、いざ疾く疾く」
西へ廻りし月の輪に、遠く望めば愛宕山、北野は近く清滝の、森を越え来る時鳥、初音床しく振返り、見上ぐる顔にはらはらと、樹々の雫も雲運ぶ、雨かと暫し立休らひ
西へまわった月の輪のもと、遠くを望めば愛宕山。北野は近く、清滝の森を越えて来る時鳥——その初音がゆかしくて振り返り、見上げる顔にはらはらと落ちるのは木々の雫。雲の運んできた雨かと、しばし立ち休らう。
歩き馴れぬ夜道にて嘸草臥し事ならん
「歩き馴れぬ夜道でさぞ草臥れたことであろう」
否妾よりあなたこそ、足弱をお連なされ、お草臥御座りませう
「いいえ、わたくしよりあなたさまこそ、足弱をお連れになってお疲れでございましょう」
暫くこれで憩はれよ
「しばらくここで憩われよ」
連立つ道に馴易く、今は隔ても中空の、朧も春の名残かな
連れ立つ道に馴れやすく、今は隔てもなくなって——中空の朧月も春の名残であることよ。
都人とは言乍ら、いとも優しき形風俗、御身が父は何人なるぞ
「都人とはいいながら、たいそう優しい身なり姿。そなたの父はどなたであるか」
父は五条の扇折、舞を好みて舞ひし故、妾も稚き頃よりして、教を受しが身の徳に、此程迄も或御所に、お宮仕へを致しました
「父は五条の扇折で、舞を好んで舞いましたゆえ、わたくしも幼いころから教えを受けました。それが身の徳となって、この程まである御所にお宮仕えをいたしておりました」
恥かしながら某は、未だ舞を見たる事なし、一さし舞を見せられまいか
「恥ずかしながらそれがしは、まだ舞を見たことがない。ひとさし舞を見せてはくださらぬか」
お送り下さるそのお礼に、只今御覧に入れませう
「送ってくださるそのお礼に、ただいま御覧に入れましょう」
女性は扇借受けて、会釈をこぼし進み出で
女は扇を借り受け、会釈をこぼしながら進み出て。
空も霞みて八重一重、桜狩する諸人が、群つつ爰へ清水や、初瀬の山に雪と見し、花の散り行く嵐山、惜む別れの春過て、夏の初めに後れにし、花も青葉の更衣、樹々の翠の美しや
空も霞んで八重に一重の桜。桜狩をする人々が群れつつここへ——清水や初瀬の山に雪かと見た花も、散りゆく嵐山。惜しむ別れの春が過ぎて、夏の初めに遅れて残った花も青葉に変わる更衣。木々の翠の美しいことよ。
イヤ面白き事なりしぞ、斯る技芸のある者を、妻に持なばよき楽しみ
「いや、面白いことであった。これほどの技芸のある者を妻に持ったならよい楽しみであろうに」
言を此方ばよきしほど
(この一句は原典の本文が乱れており、意味を確かに取りかねる。前後から、綱のこの言葉をよい潮どきとして女が言い出す、その繋ぎの句と見られる)
定めてあなたは奥様を、お持なされて御座りませうな
「さだめしあなたさまは奥さまをお持ちでございましょうな」
未だ妻は娶らぬが、見らるる通りの不骨者、誰も妻になりてがない
「まだ妻は娶らぬが、見らるるとおりの不骨者。誰も妻になり手がない」
何無ことが御座りませう
「何の、ないことがございましょう」
お情深きお心に今宵まみえし妾さへ、縁を結ぶ露もがな、思ふ恋路の初蛍
「お情け深いお心に今宵お目にかかったわたくしさえ、縁を結ぶよすがが露ほどでもあればと——」思う恋路の初蛍のように、その思いが胸に灯る。
言出しかねて胸焦し、若葉の闇に迷ふもの、都女郎は取分けて
言い出しかねて胸を焦がす。若葉の闇に迷うものよ。都の女はとりわけて。
姿優しき花菖蒲、引つ引れつ沢水に、袖も濡にし事ならん
姿の優しい花菖蒲。引いたり引かれたり、沢の水に袖も濡れたことであろう。
夫は御身の思ひ違ひ斯る名もなき田舎武士、誰が思ひをかけやうぞ
「それはそなたの思い違い。このような名もない田舎武士に、誰が思いをかけようぞ」
イエイエ立派なお名故に
「いえいえ、立派なお名ゆえに」
何立派な名とは
「何、立派な名とは」
当時内裡を警衛に、都へ登りし源の、頼光朝臣の身内にて、渡辺源氏綱殿故
「ただいま内裏の警固に都へ上られた源頼光朝臣のお身内、渡辺源氏の綱どのゆえに」
ヤ如何致して其名をば
「や、どうしてその名を」
恋しく思ふ殿御故、とくより存じて居りまする
「恋しく思うお方ゆえ、とうから存じております」
恋しく思ふと言は偽り御身が我名を存ぜしは妖魔の術であらうがな
「恋しく思うというのは偽り。そなたが我が名を知っていたのは妖魔の術であろうがな」
星をさされて打驚き
図星を指されて打ち驚き。
何妖魔の術とは
「何、妖魔の術とは」
姸しき女に化するとも、其本性は悪鬼ならん、なんと
「美しい女に化けようとも、その本性は悪鬼であろう。なんと」
汝は心附かざりしが、月の光りに映りたる、影は怪しき鬼形なりしぞ
「そなたは気づかなかったであろうが、月の光に映った影は怪しい鬼の姿であったぞ」
ヤア
「やあ」
其本性顕せよ
「その本性をあらわせ」
言に妖女も忽ちに、憤怒の相を顕せば
その言葉に妖女もたちまち憤怒の相をあらわせば。
後に窺ふ郎党が観念せよと、組附を、事とも為ず振払ひ
後ろに窺っていた郎党が「観念せよ」と組みつくのを、事ともせずに振り払い。
我は愛宕の山奥に、幾年棲て天然と、業通得たる悪鬼なり、車輪の如き目を見開き、炎を吐し有様は、身の毛もよだつ許りなり
「我は愛宕の山奥に幾年も棲んで、おのずと神通力を得た悪鬼である」——車輪のような目を見開き、炎を吐くそのありさまは身の毛もよだつばかりである。
扨こそ悪鬼でありしよな
「さてこそ悪鬼であったよな」
イデ此上は汝をば我隠家へ連行ん
「いで、このうえはそなたを我が隠れ家へ連れ行こう」
小癪な事を
「小癪なことを」
引立て行んと立かかれば、綱は生擒呉んずと、勇力振ふ時しもあれ
引き立てて行こうと立ちかかれば、綱は生け捕りにしてくれようと勇力をふるう。ちょうどそのとき。
一天俄に掻曇り、振動なして四方より、黒雲覆ひ重りて、綱が襟上むんずと握み
一天にわかに掻き曇り、地を震わせて四方から黒雲が覆いかぶさり、綱の襟上をむんずと掴み。
砂石を飛す暴風に、つれて虚空へ引上ぐれば
砂や石を飛ばす暴風とともに、虚空へ引き上げれば。
髭切の太刀抜放し、鬼の腕を切払ひ、どつと落たる北野の廻廊
綱は髭切の太刀を抜き放ち、鬼の腕を切り払った。その腕がどっと落ちたのは北野の回廊。
悪鬼は群がる雲隠れ、光を放ちて失にけり
悪鬼は群がる雲に隠れ、光を放って消え失せたのであった。
この曲は常磐津。詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第四編 常磐津集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開した。
本名題は『戻橋恋角文字』。詞は河竹黙阿弥。作曲者・初演年は原典に記載がない。
題材は謡曲『羅生門』や『平家物語』剣巻に伝わる、渡辺綱の鬼退治。一条戻橋で美女に化けた鬼と出会い、髭切の太刀でその腕を切り落とす。切られた腕は北野の回廊に落ちたとする。
当ライブラリには同じ源頼光ものとして長唄の『土蜘』『羅生門』『綱館』がある。『綱館』は切り取った腕を鬼が取り返しに来る後日談にあたる。
「普天の下卒土の浜」は『詩経』の「普天の下、王土に非ざるは莫く、率土の浜、王臣に非ざるは莫し」による。
「髭切」は源氏重代の太刀。この太刀で鬼の腕を切ったので、のちに「鬼切」と呼ばれたと伝える。
「忍ぶ摺」は信夫摺の乱れ模様に「忍ぶ」を掛ける。「けふの細布」は陸奥の狭布の細布。幅が狭くて前が合わないことから「胸合はず」を導く。
「一条の大宮」「五条のわたり」はいずれも平安京の地名。戻橋は一条堀川に架かる橋。
「五条の扇折」は扇を折り仕立てる職人。謡曲『熊野』などにも見える京の生業。
女が舞う一段は、桜から青葉へ移る四季の景を扇に写した舞尽くし。
「星をさされて」は図星を指されること。
「業通」は神通力。修行や年功によって自然に身についた法力をいう。
「言を此方ばよきしほど」の一句は、原典の本文が乱れており意味を確かに取りかねる。推測で補わず原典のまま残した。
原典に「汝は心附ざしりが」とあるのは字の乱れと見て、文意により「心附かざりしが」と改めた。
流儀・稽古本によって仮名遣いや字句に異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。