藤舎の紋 藤舎名玄TOSHA MEIGEN ― 詞章ライブラリーへ戻る
常磐津

小夜衣さよぎぬ

常磐津  河竹新七 述  本名題『恨葛露濡衣』  作曲者・初演年不詳

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小夜衣 月夜の日本堤
月夜の日本堤

秋の月夜、吉原の遊女小夜衣と若旦那千太郎が、死ぬ覚悟で廓を抜けて日本堤を落ちてゆく世話物。癪に苦しむ小夜衣、追手の三治、そして忠義者の番頭久八。久八が二人をとめようとした拍子に、刃があやまって千太郎を傷つけてしまう。当ライブラリでは三世相道行につづく二作目の心中がらみの曲で、終わりに人の死ぬ件がある。席によっては扱いに心を配りたい。

あらすじ

引け四つの拍子木の鳴るころ、月夜の里も恋の闇。廓をひそかに抜け出した丁子屋の小夜衣と若旦那千太郎が、手に手を取って日本堤を落ちてゆく。渡る雁の声さえ追手かと驚かれ、震える足で音を忍ばせるうち、小夜衣は持病の癪に歩みかねて立ち休らう。死に場所と定めた小梅の菩提所まで行かれぬなら、ここを二人の死に所にと、覚悟を語り合う。突き出しの日から惚れて、朋輩に聞きながら書いた起請文。父母に孝行も尽くさぬまま死ぬ不孝を詫びる千太郎。そこへ廓の三治が通りかかり、駆落ちの噂を聞いたと二人を見咎める。判形の関わる小夜衣を死なれては丸損と、詫びる二人を聞き入れず、小夜衣の小腕を取って引き立ててゆく。すがる千太郎は争ううちに脾腹を打たれ、気を失って堤に倒れ伏す。そこへ、宵から若旦那を案じて堤を行き来していた忠義者の番頭久八が通りかかり、介抱するうち月が雲間を出て、主従は顔を見合わせる。久八は、五十両の短刀の罪を引き受けて店を出たことも、家督相続を朝夕願ったことも、みな若旦那のためと恨みを述べる。千太郎は若気の誤りを詫び、言い訳にと刀を抜いて自害しようとする。久八は押しとどめるが、そのとめた拍子に、持った刃があやまって千太郎を傷つけてしまう。千太郎は、もとより死ぬ覚悟、我と我が手についた疵と言い残し、親たちへの言い訳を頼んで息絶える。久八は、怪我とはいえ主を殺した不忠の身と、お上へ訴え出て成敗を受けるのが罪ほろぼしと覚悟を定め、三途の川端で待っていてくれと亡骸を拝む。宵の雨が手向けの水がわり、六字の念仏の声も無常の響き。物陰からうかがっていた三治が人殺しめと組みつく折から、夜更けの田町の騒ぎ歌が聞こえてくる。罪科の重い久八は心の鬼に責められて、問注所をさして急ぎ行くのであった。

詞章と現代語訳

引四ひけよつに、月夜つきよの里さとも恋こひの闇やみ、忍しのび郭くるわを遠近をちこちの、一目堤ひとめづつみを横切よこぎつて、手てに手てを取とりて二人連ふたりづれ

引け四つの拍子木の鳴るころ、月夜の里も恋の闇。ひそかに廓を抜け出して、あちらこちらと日本堤を横切り、手に手を取っての二人連れ。

濡ぬるる裳もすその露つゆならで、心置こころおく身みは雨空あまぞらに、乱みだれて渡わたる雁かりさへも、若もし追手おつてかと驚おどろかれ、慄ふるふ足あしもと音おとを忍しのぶ、秋あきの蛙かはづの声こゑかれて、田川たがはの水みづの浅あさき縁えん、死しぬる覚悟かくごも癪しやく故ゆゑに、歩あゆみ兼かねてぞ立休たちやすらひ

裾を濡らすのは露ではなく、気の休まらぬ身には雨空に乱れて渡る雁の声さえ、もしや追手かと驚かれる。震える足もとで音を忍ばせれば、秋の蛙も声が涸れて、田川の水のように浅い縁。死ぬ覚悟はできていても、癪のために歩みかねて、立ち休らう。

アイタヽヽヽ

「あ、痛たたた。」

モシどうぞなさんしたかいなア

「もし、どうぞなさいましたかいなあ。」

掟おきて厳きびしい廓くるわを抜ぬけ、ヤレ嬉うれしやと思おもふたら、心こころのゆるみに持病ぢびやうの癪しやくがアイタヽヽヽ

「掟の厳しい廓を抜けて、やれ嬉しやと思ったら、心のゆるみに持病の癪が——あ、痛たたた。」

こりや困こまつたもので御座ござんすが、何なにぞ薬くすりは御座ござんせぬかいな

「これは困ったものでございますが、何か薬はございませぬかいな。」

死しなうと覚悟かくご極きはめし故ゆゑ、薬くすりを飲のむにも及およばねど、せめて二人ふたりが死所しにどころと定さだめし、小梅こうめの菩提所ぼだいしよまでどうぞ早はやう行ゆきたいものだが、行ゆくに行ゆかれぬ此こののさし込こみ

「死のうと覚悟を決めたのだから薬を飲むには及ばないが、せめて二人の死に場所と定めた小梅の菩提所まで、どうか早く行きたいものだが、行くに行かれぬこの差し込み。」

さうして此処等ここらに斯かうして居ゐたら、追手おつての者ものに捕とらへられ、如何いかなる憂目うきめに逢あふも知しれず

「そうしてこの辺にこうしていたら、追手の者に捕えられて、どんな憂き目に逢うかも知れない。」

小梅こうめまで行ゆかれずば、何処どこで死しぬのも同おなじ事こと

「小梅まで行かれないなら、どこで死ぬのも同じこと。」

爰ここを二人ふたりが死所しにどころに、果敢はかなく消きゆる土堤どての露つゆ

ここを二人の死に場所にと、はかなく消える土手の露。

秋あきの夜長よながに引換ひきかへて、契ちぎり短みじかき身みの上うへは

秋の夜長に引きかえて、契りの短いこの身の上は。

西にしへ傾かたむく月代つきしろを

西へ傾く月の光を。

よすがとなして冥世めいせいの旅たび

たよりとして、あの世への旅。

今更いまさら言いふも愚痴ぐちながら

今さら言うのも愚痴ながら。

そも突出つきだしの其日そのひより、郭馴くるわなれぬ身みに染しみじみと、惚ほれて起請きしやうの書様かきやうも、弄なぶられながら朋輩ほうばいに、聞きいて書かく夜よの墨すみの色いろ、薄うすき契ちぎりに今日けふの今いま筆ふでの命毛いのちげ切きれ果はてゝ、硯すずりの海うみの姉ねえさんに、恩おんも送おくらず死しぬるのは、皆みな定さだまる約束やくそくと、思おもふて早はやう殺ころしてと

「そもそも突き出しのその日から、廓に馴れぬ身にしみじみと、あなたに惚れて。起請文の書き方も、からかわれながら朋輩に聞いて書いた夜の墨の色。薄い契りのまま今日の今、筆の命毛も切れ果てて——姉さんがたに恩も返さずに死ぬのは、みな定められた約束と思って、早く殺して」と。

言いふに此方こなたも苦くるしさこらへ、そりや我われとても父母ちちははへ、孝かうも尽つくさで今いま死しなば、歎なげきをかける不孝ふかうの罪つみ、お詫わびは草葉くさばの蔭かげよりと、しぼる袂たもとの露時雨つゆしぐれ

そう言われて、こちらも苦しさをこらえ、「それは私とても、父母に孝行も尽くさずに今死ねば、嘆きをかける不孝の罪。お詫びは草葉の蔭から」と、しぼる袂の露時雨。

鐘かねの音ねしづむ真夜中まよなかに、往来わうらいも稀まれなそゝり節ぶし

鐘の音の沈む真夜中に、人通りも稀な道に聞こえてくる、そぞろ歩きのそそり節。

二寸にすん切きれて居続ゐつづけさんせ、雨あめの降ふるのに帰かへさりよか

「二寸切れて居続けなされ、雨の降るのに帰されようか。」

今いま大門おほもんで話はなしを聞きけば、丁子屋ちやうじやの小夜衣さよぎぬは、欠落かけおちをしたと言いふ事ことだが、千太郎せんたらうが連出つれだしたか、おいつア俺おれも掛かかり合あひだ、聞捨ききずてにやアならねへはへ

「いま大門で話を聞けば、丁子屋の小夜衣は駆落ちをしたということだが、千太郎が連れ出したか。おっと、それは俺も関わり合いだ。聞き捨てにはならねえわえ。」

ト言いふ声こゑ聞きいて両人りやうにんが逃にげんとするを透すかし見みて

と言う声を聞いて、二人が逃げようとするのを、透かし見て。

ヤ其処そこに居ゐるのは小夜衣さよぎぬ千太郎せんたらうか

「や、そこにいるのは小夜衣、千太郎か。」

エヽ

「ええ。」

いゝ所ところで見付みつけたわへ

「いい所で見つけたわえ。」

モシどうぞ見逃みのがして下くださりませ

「もし、どうぞ見逃してくださりませ。」

どうして是これが見逃みのがせるものか、外ほかの者ものなら知しらねへこと、俺おれが判はんの這入はいつて居ゐる小夜衣さよぎぬ、連出つれだされてたまるものか、二人ふたり共とも丁子屋ちやうじやへ、そびいて行ゆくから覚悟かくごしろ

「どうしてこれが見逃せるものか。他の者なら知らぬこと、俺の判が入っている小夜衣、連れ出されてたまるものか。二人とも丁子屋へ引き立てて行くから覚悟しろ。」

モシ三治さんぢさん、御尤ごもつともでは御座ござりまするが、添そふに添そはれぬ身みの上うへに、死しぬる覚悟かくごで廓くるわから、連つれて逃にげたる此この小夜衣さよぎぬ

「もし三治さん、ごもっともではございますが、添うに添われぬ身の上に、死ぬ覚悟で廓から連れて逃げたこの小夜衣。」

見みず知しらずと言いふではなし、麹町かうぢまちのおぢさんと兄弟分きやうだいぶんのお前まへ故ゆゑ、知しらぬ顔かほして此儘このままにどうぞ見逃みのがして下くださりませ

「見ず知らずというではなし、麹町のおじさんと兄弟分のお前さまゆえ、知らぬ顔をしてこのまま、どうぞ見逃してくださりませ。」

イヤあんまり呆あきれて物ものが言いへねへ、大金たいきんを出だして抱かかへた小夜衣さよぎぬ、死しなれて見みろ丸損まるぞんだ、其その祟たたりは判方はんかたの長庵ちやうあんと俺おれが難義なんぎ、見逃みのがすどころか二人ふたり共とも

「いや、あんまり呆れて物が言えねえ。大金を出して抱えた小夜衣、死なれてみろ、丸損だ。その祟りは判方の長庵と俺が難儀。見逃すどころか二人とも。」

そんならどうでも此儘このままに、見逃みのがしては下くださんせぬか

「それなら、どうしてもこのまま見逃してはくださいませぬか。」

知しれた事ことだサアサアきりきりと、うしやアがれ

「知れたことだ。さあさあ、きりきりと歩きやがれ。」

小腕こうでとつて引立ひきたつる、やらじと縋すがる千太郎せんたらう、是これまア待まつてと小夜衣さよぎぬが、とめるもかよわき女郎花をみなへし、情なさけ嵐あらしの一吹ひとふきに、折をれて倒たふるゝ萩はぎ芒すすき、跡あと白露しらつゆと行先ゆくさきは

小腕を取って引き立てる。やるまいとすがる千太郎、「これ、まあ待って」と小夜衣がとめるのも、かよわい女郎花。無情の嵐のひと吹きに、折れて倒れる萩すすき。あとは白露と、その行く先は。

又また一吹ひとふきの小夜風さよかぜに、雨雲あまぐもはこぶ秋あきの空そら、かはる習ならひの男気をとこぎも、変かはらぬ忠義ちゆうぎ久八きうはちが、只ただ一筋ひとすぢに歩あゆみ来きて

またひと吹きの夜風に雨雲を運ぶ秋の空。変わりやすいのが世の習いの男気のなかで、変わらぬ忠義の久八が、ただ一筋に歩んで来て。

宵よひに土堤どてで若旦那わかだんなを、見みかけた故ゆゑに跡あとをつけ、仲なかの町ちやうまでいて見みれば、女郎ぢよらうが先さきへ待まつて居ゐて、うつゝ他愛たあいもない有様ありさま、直すぐに踏込ふみこみ御意見ごいけんせうとは思おもふたが、満座まんざの中なかで若わかいお方かたに、恥はぢをかゝすも本意ほんいならねば、帰かへりを待まちて此この土堤どてを、宵よひから幾度いくたび行いつたり来きたり、只たださへ長ながい秋あきの夜よに、待またるゝ身みより待まつ身みの譬たとへ、今いまうつたのはアリヤ八やつつかしらぬ

「宵に土手で若旦那を見かけたゆえ、あとをつけて仲の町まで行ってみれば、女郎が先に待っていて、夢中でたわいもないありさま。すぐに踏み込んでご意見しようとは思ったが、満座の中で若いお方に恥をかかせるのも本意でないから、帰りを待ってこの土手を宵から幾度行ったり来たり。ただでさえ長い秋の夜に、待たれる身より待つ身のたとえ。いま打ったのは、ありゃ八つかしらぬ。」

小川をがはにかゝる橋はしの名なの、神かみならぬ身みにそれぞとも、知しらでつまづく縁えんのはし

小川にかかる橋の名ではないが、神ならぬ身にはそれと知れず、つまずく縁の端。

是これは是これは何いづれのお方かたで御座ござりまする、真平まつぴら御免ごめん下くださりませ、と立寄たちよつて、ハテナアこの往来わうらいに今時分いまじぶん、寝ねて居ゐらるるは生酔なまゑひか、ヤ息いきづかいの塩梅あんばいは、どうやら病やまひに困くるしむ様子やうす、モシどうぞなされましたか

「これはこれは、どちらのお方でございましょう。まっぴらご免くださりませ」と立ち寄って、「はてなあ、この往来に今時分、寝ておられるのは生酔いか。や、息づかいの案配は、どうやら病に苦しむ様子。もし、どうぞなされましたか。」

雲間くもまを出いづる月つきの影かげ

雲間を出る月の光。

ヤア若旦那わかだんなでござりますか

「やあ、若旦那でございますか。」

コレ小夜衣さよぎぬはやらぬやらぬ

「これ、小夜衣はやらぬ、やらぬ。」

モシ気きを確然しつかりとお持もちなされませ

「もし、気をしっかりとお持ちなされませ。」

ヤさういふ声こゑは

「や、そういう声は。」

久八きうはちで御座ござります

「久八でございます。」

ヱヽヲヽ其方そのはうは久八きうはち、アヽ面目めんぼくない

「ええ、おお、そのほうは久八。ああ、面目ない。」

面目めんぼくなやと逃出にげだすを、引戻ひきもどしてつれづれと、涙なみだ持もつ目めに顔かほうち見みやり

面目ないと逃げ出すのを引き戻して、しみじみと、涙をたたえた目で顔を見やり。

モシ若旦那わかだんな、此この久八きうはちの顔かほを見みて、逃にげる様やうなお身持みもちには、何なんでおなりなされました

「もし若旦那、この久八の顔を見て逃げるような身持ちに、何でおなりなされました。」

エヽ

「ええ。」

ヱヽお前まへさまはなア

「ええ、お前さまはなあ。」

今更いまさら言いふに及およばねど、お前様まへさまは私わたくしがお世話せわ申まうして御養子ごやうしに、お出いでなされし御身おんみ故ゆゑ、一方ひとかたならず思おもへばこそ、五十両ごじふりやうの短刀たんたうも、此この身みに罪つみを引受ひきうけて、十二じふにの年としから勤つとめたる、お内うちを不首尾ふしゆびに出でましたも、悪わるいお名なをつけない為ため、伊勢五いせごの内うちの番頭ばんとうは、見みかけによらぬ不埒者ふらちもの、紙屑かみくづ買かつて歩あるくのは、心柄こころがらぢやと人ひとさまに、芥ごみのやうに言いはるゝとも

「今さら言うに及ばぬが、お前さまは私がお世話申して御養子においでなされた御身ゆえ、ひとかたならず思えばこそ。五十両の短刀の一件も、この身に罪を引き受けて、十二の年から勤めたお店を不首尾に出ましたのも、あなたに悪いお名をつけないため。伊勢五の内の番頭は見かけによらぬ不埒者、紙屑を買って歩くのは心がらじゃと、人さまに芥のように言われようとも。」

お前まへさまさへ御辛棒ごしんばうにて、御家督ごかとく相続さうぞくなさるれば、尽つくせし忠義ちゆうぎも現あらはれて、又また元々もともとの主従しゆじゆうに、なられませうと夫それのみを、朝夕あさゆふ願ねがふ甲斐かひもなく、コレ此様このやうなお身持みもちでは、アノ物堅ものがたいお内うち故ゆゑ、翌あすとも知しれず御離縁ごりえんに、おなりなさるは知しれたこと、さうなる時ときは富沢町とみざはちやうの御両親様ごりやうしんさまへ、私わたくしが何なんと言訳いひわけがなりませう、何なんぼお若わかいお心こころでも、よもや再ふたたび廓くるわへは、お出いでなされぬ事こととのみ、思おもひましたは田舎気質ゐなかかたぎ、正直しやうぢきすぎたが今いまでは後悔こうくわい、ようも誑たらして下くださりましたな

「お前さまさえご辛抱なさって御家督を相続なされば、尽くした忠義もあらわれて、また元々の主従になれましょうと、それのみを朝夕願う甲斐もなく。これ、このような身持ちでは、あの物堅いお家ゆえ、明日とも知れずご離縁におなりなさるのは知れたこと。そうなったときは富沢町のご両親さまへ、私が何と言い訳がなりましょう。なんぼお若いお心でも、よもや再び廓へはおいでなさらぬこととのみ思いましたのは田舎気質、正直すぎたのが今では後悔。ようも誑してくださりましたな。」

其その恨うらみは尤もつともぢやが、さらさら誑たらす偽いつはるのと、そんな心こころは微塵みぢんもない、色いろに迷まよひし若気わかげの誤あやまり、久八きうはち其方そのはうへ言訳いひわけ此場このばに於おいて

「その恨みはもっともじゃが、さらさら誑すの偽るのと、そんな心は微塵もない。色に迷った若気の誤り。久八、そのほうへの言い訳、この場において。」

さしたる一腰ひとこし抜ぬくより早はやく、既すでに斯かうよと見みへければ

差していた一腰を抜くより早く、すでにこうよと見えたので。

ヱヽ滅相めつさうな事ことなされますな、お前様まへさまに命いのちを捨すてさせ、此この久八きうはちが悦よろこびませうか、誠まことのお人ひとにしたいばつかり、夜よの目めも寐ねずにまごまごと、蚊かにせゝられて此この土堤どてを、幾度いくたび歩あるくか知しれませぬ、今いまお前まへさまに死しなれたら、是これまで尽つくした忠義ちゆうぎも水みづ、短気たんきな事ことして下くださりますな

「ええ、滅相なことをなされますな。お前さまに命を捨てさせて、この久八が悦びましょうか。誠のお人にしたいばっかりに、夜の目も寝ずにまごまごと、蚊に刺されながらこの土手を幾度歩くか知れませぬ。いまお前さまに死なれたら、これまで尽くした忠義も水の泡。短気なことをしてくださりますな。」

イヤイヤわしは其方そのはうに逢あはずとも、今宵こよひは死しぬる覚悟かくごの身みの上うへ

「いやいや、わしはそのほうに逢わずとも、今宵は死ぬ覚悟の身の上。」

エソリヤマア如何いかなる訳わけあつて

「え、そりゃまあ、いかなる訳あって。」

サア是迄これまで隠かくして使つかふたる、金かねのたゝまり二ふたつには、如何いかなる前世ぜんせの悪縁あくえんか、思おもひ切きれぬアノ小夜衣さよぎぬ、所詮しよせん此世このよで添そはれねば、心中しんぢゆうせうと覚悟かくごを極きはめ

「さあ、これまで隠して使った金のかさなり、二つには、いかなる前世の悪縁か、思い切れぬあの小夜衣。所詮この世で添われねば、心中しようと覚悟を決め。」

これ此様このやうに書置かきおきまで、互たがひに持もちて郭くるわをぬけ、爰ここまで首尾しゆびよく逃にげのびしが

「これ、このように書き置きまで互いに持って廓を抜け、ここまで首尾よく逃げのびたが。」

思おもひがけなく手柄てがらの三治さんぢに見咎みとがめられて、小夜衣さよぎぬを引戻ひきもどされるをやるまいと、争あらそふ途端とたんに脾腹ひばらをうたれ、気きを失うしなふて跡あと知しらねど、翌あすはこの身みの大事だいじとなれば、せめて其方そのはうへ言訳いひわけに、爰ここに死しぬのがまだしも仕合しあはせ、どうぞ留とめずと死しなしてたも

「思いがけなく手柄顔の三治に見咎められ、小夜衣を引き戻されるのをやるまいと争う途端に脾腹を打たれ、気を失ってあとは知らぬが、明日はこの身の一大事となれば、せめてそのほうへの言い訳に、ここで死ぬのがまだしも仕合わせ。どうぞ留めずに死なせてたも。」

知しらぬ先さきは是非ぜひもないが、此この久八きうはちの目めにかゝり、何なんであなたが殺ころされませう

「知らぬうちなら是非もないが、この久八の目にかかって、何であなたを死なせられましょう。」

それぢやと言いふて生いきては居ゐられぬ、此この手てを放はなして呉くれやいの

「それじゃと言うて、生きてはいられぬ。この手を放してくれやいの。」

イヱイヱ滅多めつたに離はなしは致いたしませぬ

「いえいえ、めったに離しはいたしませぬ。」

とめる途端とたんに久八きうはちが、持もちたる刃やいば誤あやまつて

とめる途端に、久八の持った刃があやまって。

モシ若旦那わかだんなどうぞなされましたか

「もし若旦那、どうぞなされましたか。」

イヤイヤ案あんじるな、どうもしはせぬしはせぬ

「いやいや、案じるな。どうもしはせぬ、しはせぬ。」

ヤ五音ごいんの調子てうし呼吸こきふの狂くるひは、コリヤ誤あやまつて若旦那わかだんなを、ヤヽヽヽヽ

「や、声の調子、呼吸の狂いは——こりゃ、あやまって若旦那を。や、や、や。」

呆あきれて膝ひざはわなわなと、目めもくれないの草紅葉くさもみぢ

呆れはてて膝はわなわなと、目もくれない——紅の草紅葉。

モシ若旦那わかだんな、お気きを確たしかにお持もちなされませ、あなたにお怪我けがをさせまいと、とめる途端とたんにあやまつて、ひよんな事ことを致いたしました、こりやどうしたらよからうナ

「もし若旦那、お気を確かにお持ちなされませ。あなたにお怪我をさせまいと、とめる途端にあやまって、ひょんなことをいたしました。こりゃ、どうしたらよかろうな。」

苦くるしむ手負ておひを介抱かいはうなし

苦しむ手負いを介抱して。

アイヤイヤ其方そのはうの知しつた事ことではない、もとより死しぬる覚悟かくごと言いひ、我わと我手わがてについた疵きず

「あ、いやいや、そのほうの知ったことではない。もとより死ぬ覚悟と言い、我と我が手についた疵。」

イヱイヱあなたぢや御座ござりませぬ、此この久八きうはちがとめる拍子ひやうしについたので御座ござります

「いえいえ、あなたじゃございませぬ。この久八がとめる拍子についたのでございます。」

まだまだ什麼そんなことをいふか、先非せんぴを悔くいて自殺じさつする、身みの言訳いひわけを親達おやたちへ

「まだまだそんなことを言うか。先非を悔いて自害する、この身の言い訳を親たちへ。」

言いふ息いきさへも絶たへだえに、冥土めいどを照てらす常灯じやうとうの、灯火ともしびも消きゆる夜半よはの露つゆ、果敢はかなく息いきは絶たえにけり

言う息さえも絶えだえに、冥土を照らす常灯の灯火も消える夜半の露。はかなく息は絶えたのであった。

モシ若旦那わかだんな、千太郎せんたらうさまいうのう、コリヤもうことが切きれたか、ホホ――野末のずゑに弱よわる秋あきの虫むし、哀あはれを告つぐる道哲だうてつの鉦鼓しやうごの声こゑも澄すみ渡わたる、南無阿弥陀なむあみだ南無阿弥陀なむあみだ

「もし若旦那、千太郎さま、いうのう」——こりゃ、もう事が切れたか。ほほう——野末に弱る秋の虫。哀れを告げる道哲の鉦の音も澄みわたる。南無阿弥陀、南無阿弥陀。

忠義ちゆうぎ一図いちづに凝固こりかたまり、怪我けがとは言いへどお主しゆうを殺ころし、今いまは不忠ふちゆうとなつたる此この久八きうはち、これよりお上かみへ訴うつたへ出いで、三尺さんじやく高たかい木きの空そらで、主殺しゆうごろしの御成敗ごせいばい、受うけて死しぬのが罪滅つみほろぼし、モシ若旦那わかだんな、遅おそかれ早はやかれ私わたくしも、跡あとより冥土めいどへ参まゐりまして、此この身みの御詫おわびを致いたしまする、有あるか無ないかは知しらねども、三途さんづとやらの川端かはばたで、お待まちなされて下くださりませ

「忠義一途に凝り固まり、怪我とは言えお主を殺し、いまは不忠の身となったこの久八。これよりお上へ訴え出て、三尺高い木の上で主殺しのご成敗を受けて死ぬのが罪ほろぼし。もし若旦那、遅かれ早かれ私もあとから冥土へ参りまして、この身のお詫びをいたしまする。あるかないかは知らねども、三途とやらの川端でお待ちなされてくださりませ。」

今いまは詮方せんかた亡骸なきがらへ、手向たむけの水みづも宵よひの雨あめ、木々きぎの雫しづくも袖そでぬれて、唱となふる六字ろくじの無常音むじやうおん

いまは詮方なく、亡骸へ手向ける水も宵の雨。木々の雫にも袖は濡れて、唱える六字の念仏の声も無常の響き。

南無阿弥陀仏なむあみだぶつ南無阿弥陀仏なむあみだぶつ

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」

小蔭こかげに窺うかがふ以前いぜんの三治さんぢ

物陰からうかがっていた、さきほどの三治。

うぬ人殺ひとごろしめ

「うぬ、人殺しめ。」

やらじと三治さんぢが組くみつく折をりから、更ふけて田町たまちの騒さわぎ歌うた

逃がすまいと三治が組みつく折から、夜の更けた田町から聞こえる騒ぎ歌。

待宵まつよひは三味線しやみせん弾ひいてしんき節ぶし、泣ないて別わかれて後朝きぬぎぬの、袖そでか袂たもとと恨うらみ侘わび、逢あふ時ときばかり引ひきよせて、よんやさよんやさ

「待つ宵は三味線弾いて、しんき節。泣いて別れて後朝の、袖か袂と恨みわび、逢う時ばかり引き寄せて、よんやさ、よんやさ。」

罪科つみとが重おもき久八きうはちが、心こころの鬼おににせめられて、今いまの地獄ぢごくの苦くるしみと問註所もんちゆうじよさして急いそぎ行ゆく

罪科の重い久八は、心の鬼に責められて、いまが地獄の苦しみと、問注所をさして急ぎ行くのであった。

この曲は常磐津。詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第四編 常磐津集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開し、合方の指示は省いた。

詞は河竹新七。本名題は『恨葛露濡衣』で、原典もこの題名で載る。作曲者・初演年は原典に記載がない。

終わりに千太郎が誤って刺されて息絶える件があり、久八が主殺しの罪を負って問注所へ向かうところで終わる。席によっては扱いに心を配りたい。

「引四つ」は吉原の大門の閉まる引け四つ(夜十時ごろ)の拍子木。「一目堤」は日本堤(土手八丁)のこと。

「突出し」は新造が初めて客の前に出ること。「起請」は客と交わす誓紙。「姉さん」は先輩の遊女。

「二寸切れて居続けさんせ」の一段は、当時のそそり節(廓がえりの流行り歌)をそのまま取り込んだもの。結びちかくの「待宵は三味線弾いて」も同じく騒ぎ歌の文句である。

「判の這入て居る」「判方」は、遊女の年季証文の請け判(保証人の判)のこと。三治は小夜衣の証文に判を入れている関わりから、死なれては損と追ってきた。

「五十両の短刀」は、久八が若旦那の身代わりに罪を引き受けた昔の一件。詞章はそれ以上を語らないので、注記でも立ち入らない。

「道哲」は日本堤の近くにあった西方寺の通称。投込寺として遊女の菩提を弔ったことで知られ、鉦の音が堤まで聞こえたという。

「三尺高い木の空」は磔の刑をいう言いまわし。「問註所」は訴えを裁く役所。江戸の世話物だが、芝居の習いで古風に問注所と呼んでいる。

「いうのう」(千太郎さまいうのう)は語義が定めがたく、推測で埋めず原典のまま残した。呼びかけの言葉かと思われる。「ホホ――」も原典の表記のままである。

「かよわき女郎花」から「折て倒るゝ萩芒」までは、秋草に二人をなぞらえた常磐津らしい修辞。

流儀・稽古本によって仮名遣いや字句に異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。