藤舎の紋 藤舎名玄TOSHA MEIGEN ― 詞章ライブラリーへ戻る
常磐津

小夜衣さよぎぬ

常磐津  河竹新七 述  本名題『恨葛露濡衣』  作曲者・初演年不詳

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小夜衣 月夜の日本堤
月夜の日本堤

秋の月夜、吉原の遊女小夜衣と若旦那千太郎が、死ぬ覚悟で廓を抜けて日本堤を落ちてゆく世話物。癪に苦しむ小夜衣、追手の三治、そして忠義者の番頭久八。久八が二人をとめようとした拍子に、刃があやまって千太郎を傷つけてしまう。当ライブラリでは三世相道行につづく二作目の心中がらみの曲で、終わりに人の死ぬ件がある。席によっては扱いに心を配りたい。

あらすじ

引け四つの拍子木の鳴るころ、月夜の里も恋の闇。廓をひそかに抜け出した丁子屋の小夜衣と若旦那千太郎が、手に手を取って日本堤を落ちてゆく。渡る雁の声さえ追手かと驚かれ、震える足で音を忍ばせるうち、小夜衣は持病の癪に歩みかねて立ち休らう。死に場所と定めた小梅の菩提所まで行かれぬなら、ここを二人の死に所にと、覚悟を語り合う。突き出しの日から惚れて、朋輩に聞きながら書いた起請文。父母に孝行も尽くさぬまま死ぬ不孝を詫びる千太郎。そこへ廓の三治が通りかかり、駆落ちの噂を聞いたと二人を見咎める。判形の関わる小夜衣を死なれては丸損と、詫びる二人を聞き入れず、小夜衣の小腕を取って引き立ててゆく。すがる千太郎は争ううちに脾腹を打たれ、気を失って堤に倒れ伏す。そこへ、宵から若旦那を案じて堤を行き来していた忠義者の番頭久八が通りかかり、介抱するうち月が雲間を出て、主従は顔を見合わせる。久八は、五十両の短刀の罪を引き受けて店を出たことも、家督相続を朝夕願ったことも、みな若旦那のためと恨みを述べる。千太郎は若気の誤りを詫び、言い訳にと刀を抜いて自害しようとする。久八は押しとどめるが、そのとめた拍子に、持った刃があやまって千太郎を傷つけてしまう。千太郎は、もとより死ぬ覚悟、我と我が手についた疵と言い残し、親たちへの言い訳を頼んで息絶える。久八は、怪我とはいえ主を殺した不忠の身と、お上へ訴え出て成敗を受けるのが罪ほろぼしと覚悟を定め、三途の川端で待っていてくれと亡骸を拝む。宵の雨が手向けの水がわり、六字の念仏の声も無常の響き。物陰からうかがっていた三治が人殺しめと組みつく折から、夜更けの田町の騒ぎ歌が聞こえてくる。罪科の重い久八は心の鬼に責められて、問注所をさして急ぎ行くのであった。

詞章と現代語訳

引四ひけよつに、月夜つきよさとこひやみしのくるわ遠近をちこちの、一目堤ひとめづつみ横切よこぎつて、りて二人連ふたりづれ

引け四つの拍子木の鳴るころ、月夜の里も恋の闇。ひそかに廓を抜け出して、あちらこちらと日本堤を横切り、手に手を取っての二人連れ。

ぬるもすそつゆならで、心置こころお雨空あまぞらに、みだれてわたかりさへも、追手おつてかとおどろかれ、ふるあしもとおとしのぶ、あきかはづこゑかれて、田川たがはみづあさえんぬる覚悟かくごしやくゆゑに、あゆかねてぞ立休たちやすらひ

裾を濡らすのは露ではなく、気の休まらぬ身には雨空に乱れて渡る雁の声さえ、もしや追手かと驚かれる。震える足もとで音を忍ばせれば、秋の蛙も声が涸れて、田川の水のように浅い縁。死ぬ覚悟はできていても、癪のために歩みかねて、立ち休らう。

アイタヽヽヽ

「あ、痛たたた。」

モシどうぞなさんしたかいなア

「もし、どうぞなさいましたかいなあ。」

おきてきびしいくるわけ、ヤレうれしやとおもふたら、こころのゆるみに持病ぢびやうしやくがアイタヽヽヽ

「掟の厳しい廓を抜けて、やれ嬉しやと思ったら、心のゆるみに持病の癪が——あ、痛たたた。」

こりやこまつたもので御座ござんすが、なにくすり御座ござんせぬかいな

「これは困ったものでございますが、何か薬はございませぬかいな。」

しなうと覚悟かくごきはめしゆゑくすりむにもおよばねど、せめて二人ふたり死所しにどころさだめし、小梅こうめ菩提所ぼだいしよまでどうぞはやきたいものだが、くにかれぬこののさしこみ

「死のうと覚悟を決めたのだから薬を飲むには及ばないが、せめて二人の死に場所と定めた小梅の菩提所まで、どうか早く行きたいものだが、行くに行かれぬこの差し込み。」

さうして此処等ここらかうしてたら、追手おつてものとらへられ、如何いかなる憂目うきめふもしれ

「そうしてこの辺にこうしていたら、追手の者に捕えられて、どんな憂き目に逢うかも知れない。」

小梅こうめまでかれずば、何処どこぬのもおなこと

「小梅まで行かれないなら、どこで死ぬのも同じこと。」

ここ二人ふたり死所しにどころに、果敢はかなくきゆ土堤どてつゆ

ここを二人の死に場所にと、はかなく消える土手の露。

あき夜長よなが引換ひきかへて、ちぎみじかうへ

秋の夜長に引きかえて、契りの短いこの身の上は。

西にしかたむ月代つきしろ

西へ傾く月の光を。

よすがとなして冥世めいせいたび

たよりとして、あの世への旅。

今更いまさらいふ愚痴ぐちながら

今さら言うのも愚痴ながら。

そも突出つきだしの其日そのひより、郭馴くるわなれぬみじみと、ほれ起請きしやう書様かきやうも、なぶられながら朋輩ほうばいに、いてすみいろうすちぎりに今日けふいまふで命毛いのちげきれてゝ、すずりうみねえさんに、おんおくらずしぬるのは、みなさだまる約束やくそくと、おもふてはやころしてと

「そもそも突き出しのその日から、廓に馴れぬ身にしみじみと、あなたに惚れて。起請文の書き方も、からかわれながら朋輩に聞いて書いた夜の墨の色。薄い契りのまま今日の今、筆の命毛も切れ果てて——姉さんがたに恩も返さずに死ぬのは、みな定められた約束と思って、早く殺して」と。

ふに此方こなたくるしさこらへ、そりやわれとても父母ちちははへ、かうつくさでいまなば、なげきをかける不孝ふかうつみ、おわび草葉くさばかげよりと、しぼるたもと露時雨つゆしぐれ

そう言われて、こちらも苦しさをこらえ、「それは私とても、父母に孝行も尽くさずに今死ねば、嘆きをかける不孝の罪。お詫びは草葉の蔭から」と、しぼる袂の露時雨。

かねしづむ真夜中まよなかに、往来わうらいまれなそゝりぶし

鐘の音の沈む真夜中に、人通りも稀な道に聞こえてくる、そぞろ歩きのそそり節。

二寸にすんれて居続ゐつづけさんせ、あめるのにかへさりよか

「二寸切れて居続けなされ、雨の降るのに帰されようか。」

いま大門おほもんはなしけば、丁子屋ちやうじや小夜衣さよぎぬは、欠落かけおちをしたといふことだが、千太郎せんたらう連出つれだしたか、おいつアおれかかあひだ、聞捨ききずてにやアならねへはへ

「いま大門で話を聞けば、丁子屋の小夜衣は駆落ちをしたということだが、千太郎が連れ出したか。おっと、それは俺も関わり合いだ。聞き捨てにはならねえわえ。」

こゑいて両人りやうにんにげんとするをすか

と言う声を聞いて、二人が逃げようとするのを、透かし見て。

其処そこるのは小夜衣さよぎぬ千太郎せんたらう

「や、そこにいるのは小夜衣、千太郎か。」

エヽ

「ええ。」

いゝところ見付みつけたわへ

「いい所で見つけたわえ。」

モシどうぞ見逃みのがしてくださりませ

「もし、どうぞ見逃してくださりませ。」

どうしてこれ見逃みのがせるものか、ほかものならしらねへこと、おれはん這入はいつて小夜衣さよぎぬ連出つれだされてたまるものか、二人ふたりとも丁子屋ちやうじやへ、そびいてくから覚悟かくごしろ

「どうしてこれが見逃せるものか。他の者なら知らぬこと、俺の判が入っている小夜衣、連れ出されてたまるものか。二人とも丁子屋へ引き立てて行くから覚悟しろ。」

モシ三治さんぢさん、御尤ごもつともでは御座ござりまするが、そふそはれぬうへに、ぬる覚悟かくごくるわから、つれにげたるこの小夜衣さよぎぬ

「もし三治さん、ごもっともではございますが、添うに添われぬ身の上に、死ぬ覚悟で廓から連れて逃げたこの小夜衣。」

しらずとふではなし、麹町かうぢまちのおぢさんと兄弟分きやうだいぶんのおまへゆゑしらかほして此儘このままにどうぞ見逃みのがしてくださりませ

「見ず知らずというではなし、麹町のおじさんと兄弟分のお前さまゆえ、知らぬ顔をしてこのまま、どうぞ見逃してくださりませ。」

イヤあんまりあきれてものへねへ、大金たいきんしてかかへた小夜衣さよぎぬしなれて丸損まるぞんだ、そのたたり判方はんかた長庵ちやうあんおれ難義なんぎ見逃みのがすどころか二人ふたりとも

「いや、あんまり呆れて物が言えねえ。大金を出して抱えた小夜衣、死なれてみろ、丸損だ。その祟りは判方の長庵と俺が難儀。見逃すどころか二人とも。」

そんならどうでも此儘このままに、見逃みのがしてはくださんせぬか

「それなら、どうしてもこのまま見逃してはくださいませぬか。」

しれことだサアサアきりきりと、うしやアがれ

「知れたことだ。さあさあ、きりきりと歩きやがれ。」

小腕こうでとつて引立ひきたつる、やらじとすが千太郎せんたらうこれまアつてと小夜衣さよぎぬが、とめるもかよわき女郎花をみなへしなさけあらし一吹ひとふきに、をれたふるゝはぎすすきあと白露しらつゆ行先ゆくさき

小腕を取って引き立てる。やるまいとすがる千太郎、「これ、まあ待って」と小夜衣がとめるのも、かよわい女郎花。無情の嵐のひと吹きに、折れて倒れる萩すすき。あとは白露と、その行く先は。

また一吹ひとふき小夜風さよかぜに、雨雲あまぐもはこぶあきそら、かはるならひの男気をとこぎも、かはらぬ忠義ちゆうぎ久八きうはちが、ただ一筋ひとすぢあゆ

またひと吹きの夜風に雨雲を運ぶ秋の空。変わりやすいのが世の習いの男気のなかで、変わらぬ忠義の久八が、ただ一筋に歩んで来て。

よひ土堤どて若旦那わかだんなを、かけたゆゑあとをつけ、なかちやうまでいてれば、女郎ぢよらうさきまつて、うつゝ他愛たあいもない有様ありさますぐ踏込ふみこみ御意見ごいけんせうとはおもふたが、満座まんざなかわかいおかたに、はぢをかゝすも本意ほんいならねば、かへりをまちこの土堤どてを、よひから幾度いくたびいつたりたり、たださへながあきに、またるゝよりまつたとへいまうつたのはアリヤやつつかしらぬ

「宵に土手で若旦那を見かけたゆえ、あとをつけて仲の町まで行ってみれば、女郎が先に待っていて、夢中でたわいもないありさま。すぐに踏み込んでご意見しようとは思ったが、満座の中で若いお方に恥をかかせるのも本意でないから、帰りを待ってこの土手を宵から幾度行ったり来たり。ただでさえ長い秋の夜に、待たれる身より待つ身のたとえ。いま打ったのは、ありゃ八つかしらぬ。」

小川をがはにかゝるはしの、かみならぬにそれぞとも、しらでつまづくえんのはし

小川にかかる橋の名ではないが、神ならぬ身にはそれと知れず、つまずく縁の端。

これこれいづれのおかた御座ござりまする、真平まつぴら御免ごめんくださりませ、と立寄たちよつて、ハテナアこの往来わうらい今時分いまじぶんらるるは生酔なまゑひか、ヤいきづかいの塩梅あんばいは、どうやらやまひくるし様子やうす、モシどうぞなされましたか

「これはこれは、どちらのお方でございましょう。まっぴらご免くださりませ」と立ち寄って、「はてなあ、この往来に今時分、寝ておられるのは生酔いか。や、息づかいの案配は、どうやら病に苦しむ様子。もし、どうぞなされましたか。」

雲間くもまいづつきかげ

雲間を出る月の光。

ヤア若旦那わかだんなでござりますか

「やあ、若旦那でございますか。」

コレ小夜衣さよぎぬはやらぬやらぬ

「これ、小夜衣はやらぬ、やらぬ。」

モシ確然しつかりとおもちなされませ

「もし、気をしっかりとお持ちなされませ。」

ヤさういふこゑ

「や、そういう声は。」

久八きうはち御座ござります

「久八でございます。」

ヱヽヲヽ其方そのはう久八きうはち、アヽ面目めんぼくない

「ええ、おお、そのほうは久八。ああ、面目ない。」

面目めんぼくなやと逃出にげだすを、引戻ひきもどしてつれづれと、なみだかほうちやり

面目ないと逃げ出すのを引き戻して、しみじみと、涙をたたえた目で顔を見やり。

モシ若旦那わかだんなこの久八きうはちかほて、にげやうなお身持みもちには、なんでおなりなされました

「もし若旦那、この久八の顔を見て逃げるような身持ちに、何でおなりなされました。」

エヽ

「ええ。」

ヱヽおまへさまはなア

「ええ、お前さまはなあ。」

今更いまさらふにおよばねど、お前様まへさまわたくしがお世話せわまうして御養子ごやうしに、おいでなされし御身おんみゆゑ一方ひとかたならずおもへばこそ、五十両ごじふりやう短刀たんたうも、このつみ引受ひきうけて、十二じふにとしからつとめたる、おうち不首尾ふしゆびましたも、わるいおをつけないため伊勢五いせごうち番頭ばんとうは、かけによらぬ不埒者ふらちもの紙屑かみくづかつあるくのは、心柄こころがらぢやとひとさまに、ごみのやうにいはるゝとも

「今さら言うに及ばぬが、お前さまは私がお世話申して御養子においでなされた御身ゆえ、ひとかたならず思えばこそ。五十両の短刀の一件も、この身に罪を引き受けて、十二の年から勤めたお店を不首尾に出ましたのも、あなたに悪いお名をつけないため。伊勢五の内の番頭は見かけによらぬ不埒者、紙屑を買って歩くのは心がらじゃと、人さまに芥のように言われようとも。」

まへさまさへ御辛棒ごしんばうにて、御家督ごかとく相続さうぞくなさるれば、つくせし忠義ちゆうぎあらはれて、また元々もともと主従しゆじゆうに、なられませうとれのみを、朝夕あさゆふねが甲斐かひもなく、コレ此様このやうなお身持みもちでは、アノ物堅ものがたいおうちゆゑあすともしれ御離縁ごりえんに、おなりなさるはしれたこと、さうなるとき富沢町とみざはちやう御両親様ごりやうしんさまへ、わたくしなん言訳いひわけがなりませう、なんぼおわかいおこころでも、よもやふたたくるわへは、おいでなされぬこととのみ、おもひましたは田舎気質ゐなかかたぎ正直しやうぢきすぎたがいまでは後悔こうくわい、ようもたらしてくださりましたな

「お前さまさえご辛抱なさって御家督を相続なされば、尽くした忠義もあらわれて、また元々の主従になれましょうと、それのみを朝夕願う甲斐もなく。これ、このような身持ちでは、あの物堅いお家ゆえ、明日とも知れずご離縁におなりなさるのは知れたこと。そうなったときは富沢町のご両親さまへ、私が何と言い訳がなりましょう。なんぼお若いお心でも、よもや再び廓へはおいでなさらぬこととのみ思いましたのは田舎気質、正直すぎたのが今では後悔。ようも誑してくださりましたな。」

そのうらみはもつともぢやが、さらさらたらいつはるのと、そんなこころ微塵みぢんもない、いろまよひし若気わかげあやまり、久八きうはち其方そのはう言訳いひわけ此場このばおい

「その恨みはもっともじゃが、さらさら誑すの偽るのと、そんな心は微塵もない。色に迷った若気の誤り。久八、そのほうへの言い訳、この場において。」

さしたる一腰ひとこしぬくよりはやく、すでかうよとへければ

差していた一腰を抜くより早く、すでにこうよと見えたので。

ヱヽ滅相めつさうことなされますな、お前様まへさまいのちすてさせ、この久八きうはちよろこびませうか、まことのおひとにしたいばつかり、ずにまごまごと、にせゝられてこの土堤どてを、幾度いくたびあるくかしれませぬ、いままへさまにしなれたら、これまでつくした忠義ちゆうぎみづ短気たんきことしてくださりますな

「ええ、滅相なことをなされますな。お前さまに命を捨てさせて、この久八が悦びましょうか。誠のお人にしたいばっかりに、夜の目も寝ずにまごまごと、蚊に刺されながらこの土手を幾度歩くか知れませぬ。いまお前さまに死なれたら、これまで尽くした忠義も水の泡。短気なことをしてくださりますな。」

イヤイヤわしは其方そのはうあはずとも、今宵こよひぬる覚悟かくごうへ

「いやいや、わしはそのほうに逢わずとも、今宵は死ぬ覚悟の身の上。」

エソリヤマア如何いかなるわけあつて

「え、そりゃまあ、いかなる訳あって。」

サア是迄これまでかくして使つかふたる、かねのたゝまりふたつには、如何いかなる前世ぜんせ悪縁あくえんか、おもれぬアノ小夜衣さよぎぬ所詮しよせん此世このよそはれねば、心中しんぢゆうせうと覚悟かくごきは

「さあ、これまで隠して使った金のかさなり、二つには、いかなる前世の悪縁か、思い切れぬあの小夜衣。所詮この世で添われねば、心中しようと覚悟を決め。」

これ此様このやう書置かきおきまで、たがひにもちくるわをぬけ、ここまで首尾しゆびよくにげのびしが

「これ、このように書き置きまで互いに持って廓を抜け、ここまで首尾よく逃げのびたが。」

おもひがけなく手柄てがら三治さんぢ見咎みとがめられて、小夜衣さよぎぬ引戻ひきもどされるをやるまいと、あらそ途端とたん脾腹ひばらをうたれ、うしなふてあとしらねど、あすはこの大事だいじとなれば、せめて其方そのはう言訳いひわけに、ここぬのがまだしも仕合しあはせ、どうぞとめずとなしてたも

「思いがけなく手柄顔の三治に見咎められ、小夜衣を引き戻されるのをやるまいと争う途端に脾腹を打たれ、気を失ってあとは知らぬが、明日はこの身の一大事となれば、せめてそのほうへの言い訳に、ここで死ぬのがまだしも仕合わせ。どうぞ留めずに死なせてたも。」

しらさき是非ぜひもないが、この久八きうはちにかゝり、んであなたがころされませう

「知らぬうちなら是非もないが、この久八の目にかかって、何であなたを死なせられましょう。」

それぢやといふいきてはられぬ、このはなしてくれやいの

「それじゃと言うて、生きてはいられぬ。この手を放してくれやいの。」

イヱイヱ滅多めつたはなしはいたしませぬ

「いえいえ、めったに離しはいたしませぬ。」

とめる途端とたん久八きうはちが、もちたるやいばあやまつて

とめる途端に、久八の持った刃があやまって。

モシ若旦那わかだんなどうぞなされましたか

「もし若旦那、どうぞなされましたか。」

イヤイヤあんじるな、どうもしはせぬしはせぬ

「いやいや、案じるな。どうもしはせぬ、しはせぬ。」

五音ごいん調子てうし呼吸こきふくるひは、コリヤあやまつて若旦那わかだんなを、ヤヽヽヽヽ

「や、声の調子、呼吸の狂いは——こりゃ、あやまって若旦那を。や、や、や。」

あきれてひざはわなわなと、もくれないの草紅葉くさもみぢ

呆れはてて膝はわなわなと、目もくれない——紅の草紅葉。

モシ若旦那わかだんな、おたしかにおもちなされませ、あなたにお怪我けがをさせまいと、とめる途端とたんにあやまつて、ひよんなこといたしました、こりやどうしたらよからうナ

「もし若旦那、お気を確かにお持ちなされませ。あなたにお怪我をさせまいと、とめる途端にあやまって、ひょんなことをいたしました。こりゃ、どうしたらよかろうな。」

くるしむ手負ておひ介抱かいはうなし

苦しむ手負いを介抱して。

アイヤイヤ其方そのはうしつことではない、もとよりぬる覚悟かくごひ、我手わがてについたきず

「あ、いやいや、そのほうの知ったことではない。もとより死ぬ覚悟と言い、我と我が手についた疵。」

イヱイヱあなたぢや御座ござりませぬ、この久八きうはちがとめる拍子ひやうしについたので御座ござります

「いえいえ、あなたじゃございませぬ。この久八がとめる拍子についたのでございます。」

まだまだ什麼そんなことをいふか、先非せんぴくい自殺じさつする、言訳いひわけ親達おやたち

「まだまだそんなことを言うか。先非を悔いて自害する、この身の言い訳を親たちへ。」

いきさへもへだえに、冥土めいどてら常灯じやうとうの、灯火ともしびきゆ夜半よはつゆ果敢はかなくいきたえにけり

言う息さえも絶えだえに、冥土を照らす常灯の灯火も消える夜半の露。はかなく息は絶えたのであった。

モシ若旦那わかだんな千太郎せんたらうさまいうのう、コリヤもうことがきれたか、ホホ――野末のずゑよわあきむしあはれをつぐ道哲だうてつ鉦鼓しやうごこゑわたる、南無阿弥陀なむあみだ南無阿弥陀なむあみだ

「もし若旦那、千太郎さま、いうのう」——こりゃ、もう事が切れたか。ほほう——野末に弱る秋の虫。哀れを告げる道哲の鉦の音も澄みわたる。南無阿弥陀、南無阿弥陀。

忠義ちゆうぎ一図いちづ凝固こりかたまり、怪我けがとはへどおしゆうころし、いま不忠ふちゆうとなつたるこの久八きうはち、これよりおかみうつたで、三尺さんじやくたかそらで、主殺しゆうごろしの御成敗ごせいばいうけぬのが罪滅つみほろぼし、モシ若旦那わかだんなおそかれはやかれわたくしも、あとより冥土めいどまゐりまして、この御詫おわびいたしまする、るかいかはしらねども、三途さんづとやらの川端かはばたで、おまちなされてくださりませ

「忠義一途に凝り固まり、怪我とは言えお主を殺し、いまは不忠の身となったこの久八。これよりお上へ訴え出て、三尺高い木の上で主殺しのご成敗を受けて死ぬのが罪ほろぼし。もし若旦那、遅かれ早かれ私もあとから冥土へ参りまして、この身のお詫びをいたしまする。あるかないかは知らねども、三途とやらの川端でお待ちなされてくださりませ。」

いま詮方せんかた亡骸なきがらへ、手向たむけみづよひあめ木々きぎしづくそでぬれて、となふる六字ろくじ無常音むじやうおん

いまは詮方なく、亡骸へ手向ける水も宵の雨。木々の雫にも袖は濡れて、唱える六字の念仏の声も無常の響き。

南無阿弥陀仏なむあみだぶつ南無阿弥陀仏なむあみだぶつ

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」

小蔭こかげうかが以前いぜん三治さんぢ

物陰からうかがっていた、さきほどの三治。

うぬ人殺ひとごろしめ

「うぬ、人殺しめ。」

やらじと三治さんぢくみつくをりから、ふけ田町たまちさわうた

逃がすまいと三治が組みつく折から、夜の更けた田町から聞こえる騒ぎ歌。

待宵まつよひ三味線しやみせんひいてしんきぶしないわかれて後朝きぬぎぬの、そでたもとうらび、ときばかりひきよせて、よんやさよんやさ

「待つ宵は三味線弾いて、しんき節。泣いて別れて後朝の、袖か袂と恨みわび、逢う時ばかり引き寄せて、よんやさ、よんやさ。」

罪科つみとがおも久八きうはちが、こころおににせめられて、いま地獄ぢごくくるしみと問註所もんちゆうじよさしていそ

罪科の重い久八は、心の鬼に責められて、いまが地獄の苦しみと、問注所をさして急ぎ行くのであった。

この曲は常磐津。詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第四編 常磐津集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開し、合方の指示は省いた。

詞は河竹新七。本名題は『恨葛露濡衣』で、原典もこの題名で載る。作曲者・初演年は原典に記載がない。

終わりに千太郎が誤って刺されて息絶える件があり、久八が主殺しの罪を負って問注所へ向かうところで終わる。席によっては扱いに心を配りたい。

「引四つ」は吉原の大門の閉まる引け四つ(夜十時ごろ)の拍子木。「一目堤」は日本堤(土手八丁)のこと。

「突出し」は新造が初めて客の前に出ること。「起請」は客と交わす誓紙。「姉さん」は先輩の遊女。

「二寸切れて居続けさんせ」の一段は、当時のそそり節(廓がえりの流行り歌)をそのまま取り込んだもの。結びちかくの「待宵は三味線弾いて」も同じく騒ぎ歌の文句である。

「判の這入て居る」「判方」は、遊女の年季証文の請け判(保証人の判)のこと。三治は小夜衣の証文に判を入れている関わりから、死なれては損と追ってきた。

「五十両の短刀」は、久八が若旦那の身代わりに罪を引き受けた昔の一件。詞章はそれ以上を語らないので、注記でも立ち入らない。

「道哲」は日本堤の近くにあった西方寺の通称。投込寺として遊女の菩提を弔ったことで知られ、鉦の音が堤まで聞こえたという。

「三尺高い木の空」は磔の刑をいう言いまわし。「問註所」は訴えを裁く役所。江戸の世話物だが、芝居の習いで古風に問注所と呼んでいる。

「いうのう」(千太郎さまいうのう)は語義が定めがたく、推測で埋めず原典のまま残した。呼びかけの言葉かと思われる。「ホホ――」も原典の表記のままである。

「かよわき女郎花」から「折て倒るゝ萩芒」までは、秋草に二人をなぞらえた常磐津らしい修辞。

流儀・稽古本によって仮名遣いや字句に異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。