小夜衣さよぎぬ
常磐津 河竹新七 述 本名題『恨葛露濡衣』 作曲者・初演年不詳

秋の月夜、吉原の遊女小夜衣と若旦那千太郎が、死ぬ覚悟で廓を抜けて日本堤を落ちてゆく世話物。癪に苦しむ小夜衣、追手の三治、そして忠義者の番頭久八。久八が二人をとめようとした拍子に、刃があやまって千太郎を傷つけてしまう。当ライブラリでは三世相道行につづく二作目の心中がらみの曲で、終わりに人の死ぬ件がある。席によっては扱いに心を配りたい。
あらすじ
引け四つの拍子木の鳴るころ、月夜の里も恋の闇。廓をひそかに抜け出した丁子屋の小夜衣と若旦那千太郎が、手に手を取って日本堤を落ちてゆく。渡る雁の声さえ追手かと驚かれ、震える足で音を忍ばせるうち、小夜衣は持病の癪に歩みかねて立ち休らう。死に場所と定めた小梅の菩提所まで行かれぬなら、ここを二人の死に所にと、覚悟を語り合う。突き出しの日から惚れて、朋輩に聞きながら書いた起請文。父母に孝行も尽くさぬまま死ぬ不孝を詫びる千太郎。そこへ廓の三治が通りかかり、駆落ちの噂を聞いたと二人を見咎める。判形の関わる小夜衣を死なれては丸損と、詫びる二人を聞き入れず、小夜衣の小腕を取って引き立ててゆく。すがる千太郎は争ううちに脾腹を打たれ、気を失って堤に倒れ伏す。そこへ、宵から若旦那を案じて堤を行き来していた忠義者の番頭久八が通りかかり、介抱するうち月が雲間を出て、主従は顔を見合わせる。久八は、五十両の短刀の罪を引き受けて店を出たことも、家督相続を朝夕願ったことも、みな若旦那のためと恨みを述べる。千太郎は若気の誤りを詫び、言い訳にと刀を抜いて自害しようとする。久八は押しとどめるが、そのとめた拍子に、持った刃があやまって千太郎を傷つけてしまう。千太郎は、もとより死ぬ覚悟、我と我が手についた疵と言い残し、親たちへの言い訳を頼んで息絶える。久八は、怪我とはいえ主を殺した不忠の身と、お上へ訴え出て成敗を受けるのが罪ほろぼしと覚悟を定め、三途の川端で待っていてくれと亡骸を拝む。宵の雨が手向けの水がわり、六字の念仏の声も無常の響き。物陰からうかがっていた三治が人殺しめと組みつく折から、夜更けの田町の騒ぎ歌が聞こえてくる。罪科の重い久八は心の鬼に責められて、問注所をさして急ぎ行くのであった。
詞章と現代語訳
引四つに、月夜の里も恋の闇、忍び郭を遠近の、一目堤を横切て、手に手を取りて二人連
引け四つの拍子木の鳴るころ、月夜の里も恋の闇。ひそかに廓を抜け出して、あちらこちらと日本堤を横切り、手に手を取っての二人連れ。
濡る裳の露ならで、心置く身は雨空に、乱れて渡る雁さへも、若し追手かと驚かれ、慄ふ足もと音を忍ぶ、秋の蛙の声かれて、田川の水の浅き縁、死ぬる覚悟も癪故に、歩み兼てぞ立休らひ
裾を濡らすのは露ではなく、気の休まらぬ身には雨空に乱れて渡る雁の声さえ、もしや追手かと驚かれる。震える足もとで音を忍ばせれば、秋の蛙も声が涸れて、田川の水のように浅い縁。死ぬ覚悟はできていても、癪のために歩みかねて、立ち休らう。
アイタヽヽヽ
「あ、痛たたた。」
モシどうぞなさんしたかいなア
「もし、どうぞなさいましたかいなあ。」
掟厳しい廓を抜け、ヤレ嬉しやと思ふたら、心のゆるみに持病の癪がアイタヽヽヽ
「掟の厳しい廓を抜けて、やれ嬉しやと思ったら、心のゆるみに持病の癪が——あ、痛たたた。」
こりや困つたもので御座んすが、何ぞ薬は御座んせぬかいな
「これは困ったものでございますが、何か薬はございませぬかいな。」
死うと覚悟極めし故、薬を飲むにも及ばねど、せめて二人が死所と定めし、小梅の菩提所までどうぞ早う行きたいものだが、行くに行かれぬ此のさし込
「死のうと覚悟を決めたのだから薬を飲むには及ばないが、せめて二人の死に場所と定めた小梅の菩提所まで、どうか早く行きたいものだが、行くに行かれぬこの差し込み。」
さうして此処等に斯して居たら、追手の者に捕へられ、如何なる憂目に逢ふも知ず
「そうしてこの辺にこうしていたら、追手の者に捕えられて、どんな憂き目に逢うかも知れない。」
小梅まで行かれずば、何処で死ぬのも同じ事
「小梅まで行かれないなら、どこで死ぬのも同じこと。」
爰を二人が死所に、果敢なく消る土堤の露
ここを二人の死に場所にと、はかなく消える土手の露。
秋の夜長に引換て、契り短き身の上は
秋の夜長に引きかえて、契りの短いこの身の上は。
西へ傾く月代を
西へ傾く月の光を。
よすがとなして冥世の旅
たよりとして、あの世への旅。
今更言も愚痴ながら
今さら言うのも愚痴ながら。
そも突出しの其日より、郭馴れぬ身に染みじみと、惚て起請の書様も、弄られながら朋輩に、聞いて書く夜の墨の色、薄き契りに今日の今筆の命毛切果てゝ、硯の海の姉さんに、恩も送らず死るのは、皆定まる約束と、思ふて早う殺してと
「そもそも突き出しのその日から、廓に馴れぬ身にしみじみと、あなたに惚れて。起請文の書き方も、からかわれながら朋輩に聞いて書いた夜の墨の色。薄い契りのまま今日の今、筆の命毛も切れ果てて——姉さんがたに恩も返さずに死ぬのは、みな定められた約束と思って、早く殺して」と。
言ふに此方も苦しさこらへ、そりや我とても父母へ、孝も尽さで今死なば、歎きをかける不孝の罪、お詫は草葉の蔭よりと、しぼる袂の露時雨
そう言われて、こちらも苦しさをこらえ、「それは私とても、父母に孝行も尽くさずに今死ねば、嘆きをかける不孝の罪。お詫びは草葉の蔭から」と、しぼる袂の露時雨。
鐘の音しづむ真夜中に、往来も稀なそゝり節
鐘の音の沈む真夜中に、人通りも稀な道に聞こえてくる、そぞろ歩きのそそり節。
二寸切れて居続けさんせ、雨の降るのに帰さりよか
「二寸切れて居続けなされ、雨の降るのに帰されようか。」
今大門で話を聞けば、丁子屋の小夜衣は、欠落をしたと言事だが、千太郎が連出したか、おいつア俺も掛り合だ、聞捨にやアならねへはへ
「いま大門で話を聞けば、丁子屋の小夜衣は駆落ちをしたということだが、千太郎が連れ出したか。おっと、それは俺も関わり合いだ。聞き捨てにはならねえわえ。」
ト言ふ声聞いて両人が逃んとするを透し見て
と言う声を聞いて、二人が逃げようとするのを、透かし見て。
ヤ其処に居るのは小夜衣千太郎か
「や、そこにいるのは小夜衣、千太郎か。」
エヽ
「ええ。」
いゝ所で見付たわへ
「いい所で見つけたわえ。」
モシどうぞ見逃して下さりませ
「もし、どうぞ見逃してくださりませ。」
どうして是が見逃せるものか、外の者なら知ねへこと、俺が判の這入つて居る小夜衣、連出されてたまるものか、二人共丁子屋へ、そびいて行くから覚悟しろ
「どうしてこれが見逃せるものか。他の者なら知らぬこと、俺の判が入っている小夜衣、連れ出されてたまるものか。二人とも丁子屋へ引き立てて行くから覚悟しろ。」
モシ三治さん、御尤もでは御座りまするが、添に添れぬ身の上に、死ぬる覚悟で廓から、連て逃たる此小夜衣
「もし三治さん、ごもっともではございますが、添うに添われぬ身の上に、死ぬ覚悟で廓から連れて逃げたこの小夜衣。」
見ず知ずと言ふではなし、麹町のおぢさんと兄弟分のお前故、知ぬ顔して此儘にどうぞ見逃して下さりませ
「見ず知らずというではなし、麹町のおじさんと兄弟分のお前さまゆえ、知らぬ顔をしてこのまま、どうぞ見逃してくださりませ。」
イヤあんまり呆れて物が言へねへ、大金を出して抱へた小夜衣、死れて見ろ丸損だ、其祟は判方の長庵と俺が難義、見逃すどころか二人共
「いや、あんまり呆れて物が言えねえ。大金を出して抱えた小夜衣、死なれてみろ、丸損だ。その祟りは判方の長庵と俺が難儀。見逃すどころか二人とも。」
そんならどうでも此儘に、見逃しては下さんせぬか
「それなら、どうしてもこのまま見逃してはくださいませぬか。」
知た事だサアサアきりきりと、うしやアがれ
「知れたことだ。さあさあ、きりきりと歩きやがれ。」
小腕とつて引立る、やらじと縋る千太郎、是まア待つてと小夜衣が、とめるもかよわき女郎花、情嵐の一吹に、折て倒るゝ萩芒、跡白露と行先は
小腕を取って引き立てる。やるまいとすがる千太郎、「これ、まあ待って」と小夜衣がとめるのも、かよわい女郎花。無情の嵐のひと吹きに、折れて倒れる萩すすき。あとは白露と、その行く先は。
又一吹の小夜風に、雨雲はこぶ秋の空、かはる習ひの男気も、変らぬ忠義久八が、只一筋に歩み来て
またひと吹きの夜風に雨雲を運ぶ秋の空。変わりやすいのが世の習いの男気のなかで、変わらぬ忠義の久八が、ただ一筋に歩んで来て。
宵に土堤で若旦那を、見かけた故に跡をつけ、仲の町までいて見れば、女郎が先へ待て居て、うつゝ他愛もない有様、直に踏込御意見せうとは思ふたが、満座の中で若いお方に、恥をかゝすも本意ならねば、帰りを待て此土堤を、宵から幾度行たり来たり、只さへ長い秋の夜に、待るゝ身より待身の譬、今うつたのはアリヤ八つかしらぬ
「宵に土手で若旦那を見かけたゆえ、あとをつけて仲の町まで行ってみれば、女郎が先に待っていて、夢中でたわいもないありさま。すぐに踏み込んでご意見しようとは思ったが、満座の中で若いお方に恥をかかせるのも本意でないから、帰りを待ってこの土手を宵から幾度行ったり来たり。ただでさえ長い秋の夜に、待たれる身より待つ身のたとえ。いま打ったのは、ありゃ八つかしらぬ。」
小川にかゝる橋の名の、神ならぬ身にそれぞとも、知でつまづく縁のはし
小川にかかる橋の名ではないが、神ならぬ身にはそれと知れず、つまずく縁の端。
是は是は何れのお方で御座りまする、真平御免下さりませ、と立寄つて、ハテナアこの往来に今時分、寝て居らるるは生酔か、ヤ息づかいの塩梅は、どうやら病に困む様子、モシどうぞなされましたか
「これはこれは、どちらのお方でございましょう。まっぴらご免くださりませ」と立ち寄って、「はてなあ、この往来に今時分、寝ておられるのは生酔いか。や、息づかいの案配は、どうやら病に苦しむ様子。もし、どうぞなされましたか。」
雲間を出る月の影
雲間を出る月の光。
ヤア若旦那でござりますか
「やあ、若旦那でございますか。」
コレ小夜衣はやらぬやらぬ
「これ、小夜衣はやらぬ、やらぬ。」
モシ気を確然とお持なされませ
「もし、気をしっかりとお持ちなされませ。」
ヤさういふ声は
「や、そういう声は。」
久八で御座ります
「久八でございます。」
ヱヽヲヽ其方は久八、アヽ面目ない
「ええ、おお、そのほうは久八。ああ、面目ない。」
面目なやと逃出すを、引戻してつれづれと、涙持つ目に顔うち見やり
面目ないと逃げ出すのを引き戻して、しみじみと、涙をたたえた目で顔を見やり。
モシ若旦那、此久八の顔を見て、逃る様なお身持には、何でおなりなされました
「もし若旦那、この久八の顔を見て逃げるような身持ちに、何でおなりなされました。」
エヽ
「ええ。」
ヱヽお前さまはなア
「ええ、お前さまはなあ。」
今更言ふに及ばねど、お前様は私がお世話申して御養子に、お出なされし御身故、一方ならず思へばこそ、五十両の短刀も、此身に罪を引受て、十二の年から勤めたる、お内を不首尾に出ましたも、悪いお名をつけない為、伊勢五の内の番頭は、見かけによらぬ不埒者、紙屑買て歩くのは、心柄ぢやと人さまに、芥のやうに言るゝとも
「今さら言うに及ばぬが、お前さまは私がお世話申して御養子においでなされた御身ゆえ、ひとかたならず思えばこそ。五十両の短刀の一件も、この身に罪を引き受けて、十二の年から勤めたお店を不首尾に出ましたのも、あなたに悪いお名をつけないため。伊勢五の内の番頭は見かけによらぬ不埒者、紙屑を買って歩くのは心がらじゃと、人さまに芥のように言われようとも。」
お前さまさへ御辛棒にて、御家督相続なさるれば、尽せし忠義も現はれて、又元々の主従に、なられませうと夫れのみを、朝夕願ふ甲斐もなく、コレ此様なお身持では、アノ物堅いお内故、翌とも知ず御離縁に、おなりなさるは知たこと、さうなる時は富沢町の御両親様へ、私が何と言訳がなりませう、何ぼお若いお心でも、よもや再び廓へは、お出なされぬ事とのみ、思ひましたは田舎気質、正直すぎたが今では後悔、ようも誑して下さりましたな
「お前さまさえご辛抱なさって御家督を相続なされば、尽くした忠義もあらわれて、また元々の主従になれましょうと、それのみを朝夕願う甲斐もなく。これ、このような身持ちでは、あの物堅いお家ゆえ、明日とも知れずご離縁におなりなさるのは知れたこと。そうなったときは富沢町のご両親さまへ、私が何と言い訳がなりましょう。なんぼお若いお心でも、よもや再び廓へはおいでなさらぬこととのみ思いましたのは田舎気質、正直すぎたのが今では後悔。ようも誑してくださりましたな。」
其恨みは尤もぢやが、さらさら誑す偽るのと、そんな心は微塵もない、色に迷ひし若気の誤り、久八其方へ言訳此場に於て
「その恨みはもっともじゃが、さらさら誑すの偽るのと、そんな心は微塵もない。色に迷った若気の誤り。久八、そのほうへの言い訳、この場において。」
さしたる一腰抜より早く、既に斯よと見へければ
差していた一腰を抜くより早く、すでにこうよと見えたので。
ヱヽ滅相な事なされますな、お前様に命を捨させ、此久八が悦びませうか、誠のお人にしたいばつかり、夜の目も寐ずにまごまごと、蚊にせゝられて此土堤を、幾度歩くか知ませぬ、今お前さまに死れたら、是まで尽した忠義も水、短気な事して下さりますな
「ええ、滅相なことをなされますな。お前さまに命を捨てさせて、この久八が悦びましょうか。誠のお人にしたいばっかりに、夜の目も寝ずにまごまごと、蚊に刺されながらこの土手を幾度歩くか知れませぬ。いまお前さまに死なれたら、これまで尽くした忠義も水の泡。短気なことをしてくださりますな。」
イヤイヤわしは其方に逢ずとも、今宵は死ぬる覚悟の身の上
「いやいや、わしはそのほうに逢わずとも、今宵は死ぬ覚悟の身の上。」
エソリヤマア如何なる訳あつて
「え、そりゃまあ、いかなる訳あって。」
サア是迄隠して使ふたる、金のたゝまり二つには、如何なる前世の悪縁か、思ひ切れぬアノ小夜衣、所詮此世で添れねば、心中せうと覚悟を極め
「さあ、これまで隠して使った金のかさなり、二つには、いかなる前世の悪縁か、思い切れぬあの小夜衣。所詮この世で添われねば、心中しようと覚悟を決め。」
これ此様に書置まで、互ひに持て郭をぬけ、爰まで首尾よく逃のびしが
「これ、このように書き置きまで互いに持って廓を抜け、ここまで首尾よく逃げのびたが。」
思ひがけなく手柄の三治に見咎められて、小夜衣を引戻されるをやるまいと、争ふ途端に脾腹をうたれ、気を失ふて跡知ねど、翌はこの身の大事となれば、せめて其方へ言訳に、爰に死ぬのがまだしも仕合、どうぞ留ずと死なしてたも
「思いがけなく手柄顔の三治に見咎められ、小夜衣を引き戻されるのをやるまいと争う途端に脾腹を打たれ、気を失ってあとは知らぬが、明日はこの身の一大事となれば、せめてそのほうへの言い訳に、ここで死ぬのがまだしも仕合わせ。どうぞ留めずに死なせてたも。」
知ぬ先は是非もないが、此久八の目にかゝり、何んであなたが殺されませう
「知らぬうちなら是非もないが、この久八の目にかかって、何であなたを死なせられましょう。」
それぢやと言て生ては居られぬ、此手を放して呉やいの
「それじゃと言うて、生きてはいられぬ。この手を放してくれやいの。」
イヱイヱ滅多に離しは致しませぬ
「いえいえ、めったに離しはいたしませぬ。」
とめる途端に久八が、持たる刃誤つて
とめる途端に、久八の持った刃があやまって。
モシ若旦那どうぞなされましたか
「もし若旦那、どうぞなされましたか。」
イヤイヤ案じるな、どうもしはせぬしはせぬ
「いやいや、案じるな。どうもしはせぬ、しはせぬ。」
ヤ五音の調子呼吸の狂ひは、コリヤ誤つて若旦那を、ヤヽヽヽヽ
「や、声の調子、呼吸の狂いは——こりゃ、あやまって若旦那を。や、や、や。」
呆れて膝はわなわなと、目もくれないの草紅葉
呆れはてて膝はわなわなと、目もくれない——紅の草紅葉。
モシ若旦那、お気を確かにお持なされませ、あなたにお怪我をさせまいと、とめる途端にあやまつて、ひよんな事を致しました、こりやどうしたらよからうナ
「もし若旦那、お気を確かにお持ちなされませ。あなたにお怪我をさせまいと、とめる途端にあやまって、ひょんなことをいたしました。こりゃ、どうしたらよかろうな。」
苦しむ手負を介抱なし
苦しむ手負いを介抱して。
アイヤイヤ其方の知た事ではない、もとより死ぬる覚悟と言ひ、我と我手についた疵
「あ、いやいや、そのほうの知ったことではない。もとより死ぬ覚悟と言い、我と我が手についた疵。」
イヱイヱあなたぢや御座りませぬ、此久八がとめる拍子についたので御座ります
「いえいえ、あなたじゃございませぬ。この久八がとめる拍子についたのでございます。」
まだまだ什麼ことをいふか、先非を悔て自殺する、身の言訳を親達へ
「まだまだそんなことを言うか。先非を悔いて自害する、この身の言い訳を親たちへ。」
言ふ息さへも絶へだえに、冥土を照す常灯の、灯火も消る夜半の露、果敢なく息は絶にけり
言う息さえも絶えだえに、冥土を照らす常灯の灯火も消える夜半の露。はかなく息は絶えたのであった。
モシ若旦那、千太郎さまいうのう、コリヤもうことが切たか、ホホ――野末に弱る秋の虫、哀れを告る道哲の鉦鼓の声も澄み渡る、南無阿弥陀南無阿弥陀
「もし若旦那、千太郎さま、いうのう」——こりゃ、もう事が切れたか。ほほう——野末に弱る秋の虫。哀れを告げる道哲の鉦の音も澄みわたる。南無阿弥陀、南無阿弥陀。
忠義一図に凝固まり、怪我とは言へどお主を殺し、今は不忠となつたる此久八、これよりお上へ訴へ出で、三尺高い木の空で、主殺しの御成敗、受て死ぬのが罪滅し、モシ若旦那、遅かれ早かれ私も、跡より冥土へ参りまして、此身の御詫を致しまする、有るか無いかは知ねども、三途とやらの川端で、お待なされて下さりませ
「忠義一途に凝り固まり、怪我とは言えお主を殺し、いまは不忠の身となったこの久八。これよりお上へ訴え出て、三尺高い木の上で主殺しのご成敗を受けて死ぬのが罪ほろぼし。もし若旦那、遅かれ早かれ私もあとから冥土へ参りまして、この身のお詫びをいたしまする。あるかないかは知らねども、三途とやらの川端でお待ちなされてくださりませ。」
今は詮方亡骸へ、手向の水も宵の雨、木々の雫も袖ぬれて、唱ふる六字の無常音
いまは詮方なく、亡骸へ手向ける水も宵の雨。木々の雫にも袖は濡れて、唱える六字の念仏の声も無常の響き。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」
小蔭に窺ふ以前の三治
物陰からうかがっていた、さきほどの三治。
うぬ人殺しめ
「うぬ、人殺しめ。」
やらじと三治が組つく折から、更て田町の騒ぎ歌
逃がすまいと三治が組みつく折から、夜の更けた田町から聞こえる騒ぎ歌。
待宵は三味線弾てしんき節、泣て別れて後朝の、袖か袂と恨み侘び、逢ふ時ばかり引よせて、よんやさよんやさ
「待つ宵は三味線弾いて、しんき節。泣いて別れて後朝の、袖か袂と恨みわび、逢う時ばかり引き寄せて、よんやさ、よんやさ。」
罪科重き久八が、心の鬼にせめられて、今の地獄の苦しみと問註所さして急ぎ行く
罪科の重い久八は、心の鬼に責められて、いまが地獄の苦しみと、問注所をさして急ぎ行くのであった。
この曲は常磐津。詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第四編 常磐津集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開し、合方の指示は省いた。
詞は河竹新七。本名題は『恨葛露濡衣』で、原典もこの題名で載る。作曲者・初演年は原典に記載がない。
終わりに千太郎が誤って刺されて息絶える件があり、久八が主殺しの罪を負って問注所へ向かうところで終わる。席によっては扱いに心を配りたい。
「引四つ」は吉原の大門の閉まる引け四つ(夜十時ごろ)の拍子木。「一目堤」は日本堤(土手八丁)のこと。
「突出し」は新造が初めて客の前に出ること。「起請」は客と交わす誓紙。「姉さん」は先輩の遊女。
「二寸切れて居続けさんせ」の一段は、当時のそそり節(廓がえりの流行り歌)をそのまま取り込んだもの。結びちかくの「待宵は三味線弾いて」も同じく騒ぎ歌の文句である。
「判の這入て居る」「判方」は、遊女の年季証文の請け判(保証人の判)のこと。三治は小夜衣の証文に判を入れている関わりから、死なれては損と追ってきた。
「五十両の短刀」は、久八が若旦那の身代わりに罪を引き受けた昔の一件。詞章はそれ以上を語らないので、注記でも立ち入らない。
「道哲」は日本堤の近くにあった西方寺の通称。投込寺として遊女の菩提を弔ったことで知られ、鉦の音が堤まで聞こえたという。
「三尺高い木の空」は磔の刑をいう言いまわし。「問註所」は訴えを裁く役所。江戸の世話物だが、芝居の習いで古風に問注所と呼んでいる。
「いうのう」(千太郎さまいうのう)は語義が定めがたく、推測で埋めず原典のまま残した。呼びかけの言葉かと思われる。「ホホ――」も原典の表記のままである。
「かよわき女郎花」から「折て倒るゝ萩芒」までは、秋草に二人をなぞらえた常磐津らしい修辞。
流儀・稽古本によって仮名遣いや字句に異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。