官女かんじょ
作詞者・作曲者・初演年不詳 平家物語・源平盛衰記による修羅物

壇の浦の合戦に生き残った平家の官女が、下関で魚を売って世を渡る。売り声のうちに都の昔と修羅の海を思い返し、結びは能『八島』の終曲を借りて高松の朝嵐に消える。詞章集の「官女(七変化)」とは別の曲。
あらすじ
見渡せば柳と桜が錦を織りなす春。都はいつのまにか故郷となり、馴れてきた手業もわれながらいじらしい。わたしの在所はここな、ここな、この浜を越え、あの浜を越えて、ずっと下った下関。内裏ふうの風俗があだめいて——小鯛を買わんか、鱧を買いやれ、鰈を買わんかや、鯛や鱧、これを買うてたもいのう。ああ、しょんがいな。いかに身過ぎ世過ぎとはいえ、魚を売り歩く身は浮ついたものよ。徒歩はだしで、あなたを思えば室津と屋島で塩を焼く煙のように、立った浮名も厭いはせず、朝な夕なに胸をくゆらせる。楫を断たれてふっつりと、たよりなく渚に捨てられた小舟のよう。心尽くしの明け暮れに、乱れたままの黒髪を取り上げて結おうとすれば、生田の森の約束が幾度も思い返されて恥ずかしく、顔も赤間が関——せき止められては、枕に寒い几帳の風も、今は苫を漏れる月影に、泣いて明かす海女の袖。いつまた檜扇を手にできるかと、松の葉の磯馴小唄のひと節に、友のぞめきにそそのかされて船の帆綱を掛けたのも無理があろうか、須磨よ須磨よ。いよいよ恋には身をやつし、夜半の水鶏の音を砧と聞き違え、閉てた金戸を開けなかったのも無理があろうか、須磨よ須磨よ。恨みがちな床の内、憂いことつらいこと。波のあわれや壇の浦、打ち合い刺し違える船戦の駆け引きに浮き沈みするうち、春の夜は波より明けて——敵と見えたのは群れいる鴎、鬨の声と聞こえたのは浦風であった。高松の浦風、高松の浦風は、やがて朝嵐となったのである。
詞章と現代語訳
見渡せば柳桜に錦する
見渡せば、柳と桜が入りまじって錦を織りなしている。
都はいつか故郷に、馴れし手業の可愛らし
都はいつのまにか遠い故郷となり、馴れてきたこの手仕事も、われながらいじらしい。
こちの在所はナ、ここなここな、この浜越えて、あの浜越えて、ずつとの下の下関
わたしの在所はここな、ここな——この浜を越え、あの浜を越えて、ずっと下った下関でございます。
内裡風俗あだなまめきて
内裏ふうのその風俗が、なまめかしくあだめいて。
小鯛買はんか鱧買やれ、鰈買はんかや、鯛や鱧、これ買うてたもいのう、アアしよんがいな
小鯛を買わんか、鱧を買いやれ、鰈を買わんかや。鯛や鱧、これを買うてくださいませ——ああ、しょんがいな。
いかに身過ぎぢや世過ぎぢやとても、おまな売る身は蓮葉なものぢやえ
いかに身過ぎ世過ぎのためとはいえ、魚を売り歩くこの身は、浮ついたものでございますよ。
徒歩はだし、そなた思へば室と八島で塩やく煙、立ちし浮名も厭ひはせいで
徒歩はだしで歩きまわり、あなたを思えば——室津と屋島で塩を焼く煙のように立った浮名も、厭いはせずに。
朝な夕なに胸くゆらする、楫を絶えてやふつつりと、たよりなぎさに捨小舟
朝な夕なに胸をくゆらせている。楫を断たれてふっつりと——たよりなく、渚に捨てられた小舟のようなこの身よ。
心づくしの明暮に、乱れしままの黒髪も、取上げてゆふかね言の
心尽くしの明け暮れに、乱れたままの黒髪も取り上げて結おうとすれば——その「結ふ」ならぬ、かねての約束のことが。
生田の森の幾度か、思ひ過して、恥かしく、顔も赤間が関せかれては
生田の森でのことが幾度も思い返されて恥ずかしく、顔も赤らむ——その赤間が関、せき止められては。
枕に寒き几帳の風も、今は苫洩る月影に、泣いてあかしの海女の袖
枕もとに寒く吹いた几帳の風も、いまは苫を漏れる月影に変わり——泣いて明かす、その明石の海女の袖よ。
いつ檜扇を松の葉の、磯馴小唄のひとふしに
いつまた檜扇を手にできるかと待つ——その松の葉の、磯馴小唄のひと節に。
友のぞめきにそそのかされて、船の帆綱をかけぬが無理か、須磨よ須磨よ
友のはやし立てるのにそそのかされて、船の帆綱を掛けなかったのが無理であろうか。須磨よ、須磨よ。
いとど恋には身をやつす、夜半の水鶏を砧と聞いて
いよいよ恋には身をやつし、夜半の水鶏の鳴く音を砧の音と聞き違えて。
たてし金戸を開けぬが無理か、須磨よ須磨よ
閉てた金戸を開けなかったのが無理であろうか。須磨よ、須磨よ。
怨みがちなる床の内、憂やつらや
恨みがちな床の内。憂いことよ、つらいことよ。
波のあはれや壇の浦、打合ひ刺違ふ船戦の駈引、浮き沈むとせし程に
波のあわれよ、壇の浦。打ち合い、刺し違える船戦の駆け引きに、浮きつ沈みつしているうちに。
春の夜の波より明けて、敵と見えしは群れ居る鴎
春の夜は波の上から明けて——敵と見えたのは、群れいる鴎であった。
鬨の声と聞えしは
そして鬨の声と聞こえたのは。
浦風なりけり高松の、浦風なりけり高松の、朝嵐とぞなりにける
浦風であったのだ——高松の、浦風であったのだ、高松の。それがやがて朝嵐となったのである。
詞章は日本舞踊家 水木歌惣氏のブログ「歌惣の夢路」に掲載された本文による。校訂本文ではないので、演奏の際はとくに稽古本との照合をお勧めする。
純邦楽詞章集にも「官女(七変化)」の立項があるが、こちらは変化物『雛祭神路桃』の一段で、まったく別の曲。混同しないよう注意されたい。
『平家物語』『源平盛衰記』の詞句を織りまぜた修羅物。壇の浦に生き残った平家の官女が、下関で魚を売って世を渡るという趣向。
「見渡せば柳桜に錦する」は素性法師の「見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける」(古今集)による。
「おまな」は御真魚。魚のことをいう女房ことば。「蓮葉」は浮ついてしまりのないさま。
「室と八島で塩やく煙」は播磨の室津と讃岐の屋島。塩を焼く煙が立つことに「浮名が立つ」を掛ける。
「楫を絶えて」は壇の浦の合戦で、源義経が平家の船の楫取りを射させたことをいう。以下「たよりなぎさ」は「便りなし」と「渚」を掛ける。
「生田の森」は一ノ谷の合戦の地。梶原源太景季が箙に梅の枝を挿して奮戦し、平家の公達が和歌を贈って賞めたという逸話が知られる。
「顔も赤間が関」は顔が赤らむことに下関の古名 赤間関を掛ける。「泣いてあかし」も「明かす」と明石を掛ける。
「檜扇」は宮中の女房が持つ扇。官女であった昔をしのぶよすが。「磯馴」は潮風に低く傾いた松。
「水鶏を砧と聞いて」は、水鶏が戸を叩くように鳴くことから、訪れの音と聞き違える趣向。「金戸」は堅く閉ざした戸。
結びの「浦風なりけり高松の、朝嵐とぞなりにける」は能『八島』の終曲をほぼそのまま用いる。修羅の夢が明けて、ただ浦風だけが残るという結び。
作詞者・作曲者・初演年は不詳。流儀・稽古本によって仮名遣いや字句にも異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。