八重がきやへがき
荻江節 作詞者・作曲者・初演年不詳

暁の後朝の別れを惜しむ、ごく短い恋の小品。ふたりの仲は口には出さず、末は夫婦になる気で人目を忍ぼうという、含みのある文句。家の裏手の生垣「背戸の八重垣」に、仲のよさを言い納める。他の曲と異なり『徳川文芸類聚』所収の荻江節正本による。
あらすじ
暁の別れさえなければ、なまじ悔やむ心も起きはしまいに。明け方を告げる烏の声が気の毒。岩にせかれる滝川がやがてひとつの流れになるように、水も漏らさぬ仲——それをとんと口には出さずに済まそうぞえ。人にせかれようと親に叱られようと、末は夫婦になる気でいて、とんと言わずに済まそうぞえ。背戸の八重垣、仲のよいことよ。
詞章と現代語訳
暁の、別れがなくばなまなかに、悔やむ心のでやせまい、明けの烏の
暁の別れさえなければ、なまじ悔やむ心も起きはしまいに。明け方を告げる烏の。
声ぞ気の毒、岩にせかるゝたき川の、ひとつ流れのなア、水もらさぬをとんと
声が気の毒。岩にせかれる滝川が、やがてひとつの流れになるように、水も漏らさぬ仲を、とんと。
言わずに済まそぞへ
口には出さずに済まそうぞえ。
人にせかりよと親がしかろと
人にせかれようと、親に叱られようと。
末は夫婦になア、なる気でおいてとんと言はずに済まそぞへ、背戸の八重がき中よかろ
末は夫婦になあ、なる気でいて、とんと口には出さずに済まそうぞえ。背戸の八重垣、仲のよいことよ。
この曲は詞章の出典が他と異なる。『徳川文芸類聚』第十 俗曲下所収『荻江節正本』の本文(著作権消滅)により、章句の記号は原典のまま段の頭に残し、合方の指示は省いた。
原典は総かな書きのため、読みやすさを考えて漢字を当てた。ふりがなが原典の仮名である。
「岩にせかるゝたき川の」は崇徳院の歌「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」を踏まえ、今は隔てられても末はひとつになる仲を言う。
「水もらさぬ」は水も漏らさぬ仲、ごく親密な仲の言いまわし。
「背戸の八重垣」は家の裏手の幾重にもめぐらした生垣。古歌「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を」の縁で、夫婦への願いを響かせるか。
作詞者・作曲者・初演年は原典に記載がない。流儀・稽古本によって仮名遣いや字句にも異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。