八犬伝富山の段はっけんでんとやまのだん
常磐津 本名題『八犬義士誉勇猛』 作詞者・作曲者・初演年不詳

曲亭馬琴の読本『南総里見八犬伝』の発端、伏姫と八房の富山の一段による。前半は樵夫たちの噂話と、富山の岩屋にひとり住む伏姫の四季。怪しい草刈り童が現れて懐胎の因果を告げる。後半は父義実と金鞠大助が山に入り、大助の放った弾が八房もろとも伏姫を傷つける。伏姫は身の潔白を明かして自害し、水晶の数珠が八つの玉となって飛び散り、八犬士誕生の因縁が語られる。終わりに伏姫の死ぬ件があり、席によっては扱いに心を配りたい。
あらすじ
獅子は谷へ子を落としてその勇を知り、犬が夜を守るのは義であり勇である。頃は嘉吉二年の春、結城の戦に敗れた里見義実は南総滝田の城主となったが、安西の奸計で危うかった折、戯れに「安西の首を取れば姫をやろう」と言った一言から、飼犬八房が敵将の首を取り、伏姫は父の綸言を立てて八房に伴われ富山の奥に籠る。麓の高札の前では樵夫たちがその噂を語り合う。人跡絶えた山の岩屋で、伏姫は苔の筵に座して法華経を読誦し、春の山桜から冬の白雪まで四季をひとりで送る。ある日、人も通わぬ深山に笛の音がして、牛に乗った草刈り童が現れる。わが身の不調を問えば、童はそれは懐胎のしるしと言い、交わらずとも一念が凝って胎内に宿る八つ子の因果、されど水晶の数珠と法華経の功力で、やがて里見の家の忠臣と生まれ変わると告げて掻き消える。洲崎の行者のお告げと悟った伏姫は、水面に映るわが姿が犬の顔となる不思議に取り乱し、もはやこれまでと覚悟を定める。夜更けて名残の勤めに提婆品を読誦するところへ、筒音一発——功名を立てて帰参をと山に忍んでいた金鞠大助の二つ玉が八房を撃ち留め、それた弾が伏姫の肩先を傷つける。狩装束の義実も来合わせ、主従は暗闇の中で顔を見合わせる。義実は、大助の父金鞠八郎への恩義から心のうちで大助を聟と定めていたと明かすが、伏姫は言うより早く懐剣をわが腹へ突き立てる。おめおめ生きて犬の子を産めば父の恥辱、心に定められた人への申し訳と、覚悟の自害を語る姫。義実が月にかざした水晶の数珠は、如是畜生の文字が消えて仁義礼智孝貞忠信の八文字に返り、悪霊解脱のしるしを見せる。伏姫は「わが一念を神として、八つの玉を八人の忠臣の子胤としよう」と数珠を押し揉んで祈れば、念珠は切れて八つの玉が光を放って虚空へ飛び散り、疵口からは八つの犬の形の影が空へ去る。大助は髻を切って丶大と名乗り、玉を持つ勇士を探す誓いを立てる。伏姫は本望と念仏の声のうちにはかなくなり、丶大は東八ヶ国へ勇士を尋ねる旅に立つ。八犬伝と読本に千代も伝えて、常磐津の節に残るぞ勇ましい。
詞章と現代語訳
獅子は谷へ子を落して其勇を知り、虎の河を渡すは智なり、犬の夜を守るは義なり勇なり、主を敬ひ主を知るは是礼なり、其職を守りて私なきも又斯のごとしとかや、御代治りて曇りなき、天津日嗣百つき余り、御花園院の御宇とかや、頃は嘉吉二年の春、結城の軍破れて後、里見又太郎義実公、再び家を起さんと南総へ押渡り、滝田の城主と時めきしが、安西が奸計にて既に危き其折から、八房に伴はれ富山の奥の山住居、麓に立し高札の前に休らふ樵夫ども、仇口々に高談
獅子は谷へ子を落としてその勇を知り、虎が河を渡るのは智である。犬が夜を守るのは義であり勇であり、主を敬い主を知るのは礼である。その職を守って私心のないこともまた、このとおりだという。御代は治まって曇りなく、天津日嗣は百代あまり、後花園院の御宇とか。頃は嘉吉二年の春、結城の戦に敗れたのち、里見又太郎義実公は再び家を起こそうと南総へ渡り、滝田の城主として時めいたが、安西の奸計ですでに危うかったその折から——姫は八房に伴われて富山の奥の山住まい。麓に立った高札の前で休む樵夫たちが、気ままに口々に話し合う。
何と杢助、此札が立てから二年越し山へ入ぬが、嘸枯木が出来たであらう、モウよい加減に山を開いて下さればよいになア、わしはゆう筆ぢやによつて高札は読めず、自体どういふ事ぢやナ、わら助の何言ふぞへ、そんなら、汝侶はまだ知ぬか、滝田の御城主様のお姫様が八房といふ犬と一緒に此山にお住ひなされて御座るけな、ワレ又どうしてお姫さまとその犬が、おらも委しい訳は知ぬが、夫故に樵夫山賤は言に及ばず、狩人又は草刈まで山を登るをお止めなされたと言事と、咄す傍から狩人の鉄八は進み寄り、コレコレその委しい話は必ずするなと庄屋殿の言付なれど、外に聞者もない此の麓、おらが話して聞さうわへ、かうと一昨年の難渋年、お上に兵糧の尽きた折から、安西が八方より戦ひ寄る、今や落城と言時に、殿様が八房に安西が首をとらば姫をやらうと言たげな、夫を聞分け八房の犬は大手を走り出で、安西が首を咬へて殿様の前に置き、大将なければ忽ちに安西方は亡びたり、八房は姫君の振袖を引咬へて引立てる、殿様は腹を立て突殺さんとしたまふを、お姫様は楯となり、君の仰は倫言同然、出でてかへらぬ此身の因果、安西の首とりしは八房の手柄なり、国の為家の為身を捨るは惜からず、八房に伴はれ此富山の奥住居、それ故に此山へ登ることお止めなされた、何と皆の衆痛はしい事ぢやないかいのう、と言に杢助鼻すゝり、鉄八が講釈でさらりと解つた犬の咄、大将の首取てお姫様を貰ふとは、羨望しい事ぢやないか、これからおらも戦があつたら雑兵の首なと拾ふてお末の一人も貰はうわいのう
「なんと杢助、この札が立ってから二年越しで山へ入れないが、さぞ枯木がたまったろう。もういい加減に山を開いてくださればよいのになあ。わしは筆が読めないから高札は読めぬが、いったいどういうことじゃな。」「わら助、何を言うぞえ。それならお前たちはまだ知らぬか。滝田のご城主さまのお姫さまが、八房という犬と一緒にこの山にお住まいなされているそうな。」「これはまた、どうしてお姫さまとその犬が。」「おれも詳しい訳は知らぬが、それゆえに樵夫や山賤は言うに及ばず、狩人も草刈りも山に登るのをお止めなされたということだ。」——話すそばから狩人の鉄八が進み寄り、「これこれ、その詳しい話は決してするなと庄屋どののお言いつけだが、ほかに聞く者もないこの麓、おれが話して聞かせよう。一昨年の難渋の年、お上に兵糧の尽きた折から、安西が八方から攻め寄せ、今や落城というときに、殿さまが『八房、安西の首を取ったら姫をやろう』と言うたそうな。それを聞き分けた八房は大手を走り出て、安西の首をくわえて殿さまの前に置いた。大将を失った安西方はたちまち亡びた。八房は姫君の振袖をくわえて引き立てる。殿さまは腹を立てて突き殺そうとなさるのを、お姫さまは楯となり、『君の仰せは綸言も同然。出て帰らぬこの身の因果、安西の首を取ったのは八房の手柄。国のため家のため、身を捨てるのは惜しくない』と、八房に伴われてこの富山の奥住まい。それゆえこの山へ登ることをお止めなされたのだ。なんと皆の衆、痛わしいことではないかいのう。」と言えば杢助は鼻をすすり、「鉄八の講釈でさらりと解った犬の話。大将の首を取ってお姫さまをもらうとは、うらやましいことではないか。これからおれも戦があったら、雑兵の首でも拾って、お末のひとりももらおうわいのう。」
跡に笑ひを樵夫ども、去なう去なうと夕間暮、我家我家へ戻り行く
あとに笑い声を残して樵夫たちは、帰ろう帰ろうと夕間暮れ、めいめいの家へ戻ってゆく。
濁世煩悩色欲界誰か五塵の火宅を脱れて、祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きなれ、さらぬだに秋は寂しきものなるに、人跡絶し富山の奥麓に埋む落葉には、盛者必衰の理を示し、谺に響く瀧津瀬と山又山の松風を、寐覚の友と身一つに、悟りすまして里見伏姫
濁世は煩悩と色欲の世界、誰が五塵の火宅を逃れられよう。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きである。そうでなくても秋は寂しいものなのに、人跡の絶えた富山の奥、麓に埋もれる落葉は盛者必衰の理を示し、谺に響く滝つ瀬と山また山の松風を寝覚めの友に、ただ身ひとつで悟りすました里見伏姫。
苔の筵に坐を占めて、唱ふる経も黄鳥の、春去り来れば八重霞、花は遠目に見ゆれども、雲には近き山桜弥生は里の雛遊び、女夫双居て今朝ぞつむ、名もなつかしき母子草、誰が搗初し三ヶの日の、餅にあらむ菱形の、腰懸石も肌ふれて、やゝ暖き苔衣脱替へねども夏の夜の袂涼しき谷風に、梳らして夕立の、雨にあらふて干す髪の、蓬が下に鳴く虫の、秋としなれば色々に、岩間の紅葉織り映し、錦の床の仮初の、宿としらでや鹿ぞ鳴く、水沢の時雨晴間なき、果はそことも白雪の、はだにやれたる振袖を、かゝげて室を立出給ひ
苔の筵に座を占めて唱える経も、鶯の声とともに。春が去り来れば八重霞、花は遠目に見えるけれど、雲には近い山桜。弥生は里の雛遊び、夫婦むつまじく並んで今朝摘む、名もなつかしい母子草。誰が搗き初めた三が日の餅かと思う菱形の腰掛石も、肌に触れてやや暖かい。苔の衣は脱ぎ替えないが、夏の夜は袂も涼しい谷風に髪を梳かせ、夕立の雨に洗って干す。蓬の下に鳴く虫の、秋ともなれば色々に岩間の紅葉が織り映えて、錦の床のかりそめの宿とも知らずに鹿が鳴く。水沢の時雨は晴れ間なく、果てはそこかしこも白雪。肌に破れた振袖をかかげて、岩屋を立ち出でなされ。
棄恩入無為報恩者と御仏は説せ給ふ、恩愛別離の悲しみも、皆父上の御為なるに、なつかしと思ひ奉るは、罪深き事ぞかし、三世の諸仏免させ給へいざや
「恩を棄てて無為に入るは報恩の者と御仏は説きなされた。恩愛別離の悲しみも、みな父上の御為であるのに、なつかしいと思い申すのは罪深いことぞ。三世の諸仏、お許しくだされ。いざ。」
花を奉らん、おゝさうぢや
「花をお供えしよう。おお、そうじゃ。」
手許やさしく閼伽手桶御法も菊の露雫、流れの音も山彦の、夫かあらぬか風ならで、遥かに聞ゆる笛の音に、伏姫耳を傾け給ひ
手もとやさしく閼伽の手桶、御法も菊の露しずく。流れの音も山彦の——それかあらぬか、風ではなく、遥かに聞こえる笛の音に、伏姫は耳を傾けなされ。
思ひ寄らざるあの笛の音、妾が山へ入りしより、昨日迄も今日迄も、狩する男薪樵る、賤も通はぬこの深山、珍らしいアノ音色、草刈童の迷ひ入りしか、但しは狐狸か山鬼か、障碍をなして自らが、道心を挫かん為か、何にもせよ心ならざるすさみぢやなナ
「思いも寄らないあの笛の音。わたくしが山へ入ってから、昨日まで今日まで、狩する男も薪を樵る賤も通わないこの深山に、珍しいあの音色。草刈りの童が迷い込んだのか、それとも狐狸か山鬼が障碍をなして、わたくしの道心をくじこうとするのか。何にせよ、心得ぬすさびじゃなあ。」
と見やり給へば向ふより、まだ振分のおどろ髪、年はやうやう六つ七つ、七巡りして坂道を牛にゆられて来りける、姫君暫しと呼止め
と見やりなされば、向こうから、まだ振分け髪のおどろ髪、年はようやく六つ七つの童が、七巡りして坂道を牛にゆられて来た。姫君はしばしと呼び止め。
ノウノウ童人も通はぬ此深山へ登りしは心得ず、そなたは何れの里の子ぞ、聞ま欲しやと宣へば
「のうのう童、人も通わぬこの深山へ登って来たのは合点がゆかぬ。そなたはどこの里の子ぞ。聞きたいものよ」とのたまえば。
ヲヽわしは牛馬のために草刈るものではない、お師匠様に使はるゝもの今日此山へ薬を採りに登りました
「おお、わしは牛や馬のために草を刈る者ではない。お師匠さまに使われる者で、今日この山へ薬を採りに登りました。」
ムヽ薬をとりにといやるからは、そなたの師匠はお医者よな、シテその住居は
「むう、薬を採りにと言うからは、そなたの師匠はお医者よな。して、その住まいは。」
ヲヽ此山の麓に住み、又ある時は洲先にあり、常には人の病を治し、又ある時は箸をとり、人の吉凶禍福を占ひ、或は雨乞日和の加持、天地の間にありとあらゆること、知ざることはましまさずと、いと賢しげに語りける
「おお、この山の麓に住み、またある時は洲崎にあり、常には人の病を治し、またある時は筮をとって人の吉凶禍福を占い、あるいは雨乞い日和の加持——天地の間にありとあらゆること、知らぬことはおありでない」と、いかにも賢しげに語った。
ムヽそんならそなたも病の道は聞つらん、自らはさいつ頃より夜に日に増て胸くるしく、次第次第に身の重きは奈何なる病ぞ、治する薬もあるならば教へてたもと宣へば
「むう、それならそなたも病の道は聞いていよう。わたくしはこのごろから夜に日に増して胸苦しく、しだいしだいに身が重くなるのはいかなる病ぞ。治す薬もあるならば教えてたも」とのたまえば。
ヲヽ夫こそはつはりのしるし又目の下に青潤とて、青き色の見えたるは、胎内に子を孕み、産月も近づきしと、云に伏姫打笑ひ
「おお、それこそつわりのしるし。また目の下に青潤といって青い色が見えるのは、胎内に子をはらみ、産み月も近づいたのだ」と言うので、伏姫はお笑いになり。
ヲヽアノ子としたことが、流石は年ゆかざるしるし、訳を咄して聞すべし、此方へ来よと
「おお、あの子としたことが。さすがは年のゆかぬしるし。訳を話して聞かせよう。こちらへ来よ」と。
招ぎ給へば嬉しげに、牛の背より飛下りて、お傍近く歩み寄る、伏姫君は閼伽桶の、菊の一枝手に取給ひ
招きなされば嬉しげに牛の背から飛び下りて、お傍近く歩み寄る。伏姫君は閼伽桶の菊の一枝を手にお取りになり。
コレ此花欲うはないかや
「これ、この花は欲しくないかや。」
ヲヽ下されやと
「おお、くだされや」と。
もつれかゝるも愛らしく、右よ左よ戯れて、与へ給へば手に持て
もつれかかるのも愛らしく、右よ左よと戯れて、お与えなされば手に持って。
これ御覧ぜよ此花の、誰育てねど秋毎に己れと咲も雨露の、恵みを受し千代見草
「これご覧なされ、この花の。誰が育てるでもなく秋ごとにおのずから咲くのも、雨露の恵みを受けた千代見草。」
齢草ともさまざまに、異名も多き黄金草、姿やさしき乙女草、いざ白菊の御身にも、子を宿さぬとは言難し、といへば姫君微笑て、いやとよ夫は僻事よ、夫とてもなき独身に、嬰兒を産べきやうはなし
「齢草ともさまざまに異名の多い黄金草、姿やさしい乙女草。いざ、白菊のような御身にも、子を宿さぬとは言い難い」と言えば、姫君は微笑んで、「いやとよ、それはひが事よ。夫とてもない独り身に、嬰児を産めるはずはない。」
夫なしとは言難し、親の許せし八房の、犬は即ち夫なり、といふに姫君姿を改め
「夫がないとは言い難い。親の許した八房の犬は、すなわち夫である」と言うので、姫君は姿を改め。
そなたはその初めをしつて其後を知ぬなり、御経の功力にて幸ひ身は汚されず、何ぞ悲類の八房に我身は清し潔よし、神こそ知せ給ひなん、といへば童子は打笑ひ、姫君こそ一を知て二を知ぬといふものなり、交らぬとて孕まんや、鶴は千歳にして尾らず、相見て孕み子を産り、昔唐土楚王の妃、常に鉄金の柱を抱く、終に鉄金の丸かせを産り、則ち干将莫耶の剣これなり、慥なことを語るべし、お前は当国里見の息女、悪霊付し八房に、見入られしも定る因果、身は汚されねど恋慕ふ、一念凝つて胎内に、自然と宿る子は八ッ子、されど身に添ふ水晶の、珠数の徳と法華経の功力によつて、末終に里見の家の忠臣と、生れ変るも方便力、かまへて疑ひ給ふなよ、さらばさらばと牛の背に乗るよと見えしが霧霞、コレのう待つてと伏姫が、すがるとすれば朦朧と、姿は失せて忽ちに、掻消す如くなりにけり、はつとばかりに伏姫は、泣崩おれて居たりしが、やうやうに顔をあげ
「そなたはその初めを知って、そのあとを知らぬのだ。お経の功力で幸い身は汚されず、なんで卑しい八房などに。わが身は清く潔白、神こそご存じであろう」と言えば、童子は笑って、「姫君こそ一を知って二を知らぬというもの。交わらぬからとて孕まぬものか。鶴は千年、つるまずとも相見て孕んで子を産む。昔、唐土の楚王の妃は常に鉄金の柱を抱き、ついに鉄金の丸がねを産んだ。すなわち干将莫耶の剣がこれである。確かなことを語ろう。お前は当国里見の息女、悪霊の付いた八房に見入られたのも定まる因果。身は汚されないが、恋い慕う一念が凝って胎内に自然と宿る子は八つ子。されど身に添う水晶の数珠の徳と法華経の功力によって、末ついに里見の家の忠臣と生まれ変わるのも方便の力。決して疑いなさるなよ。さらばさらば」と牛の背に乗るよと見えたが、霧霞。「これのう、待って」と伏姫がすがろうとすれば朦朧と、姿は失せてたちまち掻き消すようになった。はっとばかりに伏姫は泣き崩れていたが、ようように顔をあげ。
さては年頃信心なす、洲先の行者の仮初に、童子と現れ伏姫に、因果を諭し告給ふか、さはさり乍ら情けなや
「さては年ごろ信心する洲崎の行者が、かりそめに童子と現れて、伏姫に因果を諭し告げなされたか。さはさりながら、情けなや。」
我身を慕ふ八房が、其執心の身に宿り、懐胎せしか浅ましや、取も直さず畜生道、ノウいまはしやコハ何とせうどうせうとわつと許りにどうと伏し、流涕これが泣き給ふ、やうやう涙を拭ひ
「わが身を慕う八房の、その執心が身に宿って懐胎したのか。浅ましや。取りも直さず畜生道。のう、忌まわしや。これはどうしよう、どうしよう」と、わっとばかりにどうと伏し、涙を流してお泣きになる。ようよう涙をぬぐい。
アヽ歎くまい恨むまい、迚も畜生三界の、胤を宿せしこの身の業、若しも月満ち犬の子を産まば此身の恥、女乍らも義実が娘、憎しと思ふ八房を、守り刀にさし殺し、自ら迚も谷川の、水の泡とも消え果てん、今日を限りの露の身も、せめて未来は仏果の種、ヲヽさうぢや
「ああ、嘆くまい恨むまい。とても畜生三界の胤を宿したこの身の業。もしも月が満ちて犬の子を産むならこの身の恥。女ながらも義実が娘。憎いと思う八房を守り刀で刺し殺し、わたくしとても谷川の水の泡と消え果てよう。今日を限りの露の身も、せめて未来は仏果の種。おお、そうじゃ。」
法の手向の閼伽の水、汲んと岸に静々と、立寄り給ふに水の面、見れば不思議や我面影、映るは正しく犬の顔、若し八房が来りしかと見れども影も波の音、念珠頂きさしうつす、顔は変らぬ我が面影
法の手向けの閼伽の水を汲もうと、岸に静々と立ち寄りなされば、水の面——見れば不思議や、わが面影の映るのはまさしく犬の顔。もしや八房が来たのかと見ても、影もなくただ波の音。念珠をいただいて映し直せば、顔は変わらぬわが面影。
ハテ不思議や初めの姿は犬の形、今また念珠をこの如く、かざして映せば我が面影、心の迷ひか空目かと、合点行ねば数珠押隠し、映せばまたも恐ろしき、犬の姿にぞつとして、数珠をかざせば我が面影、かくれば犬の顔形、わつと許りに声立て、狂気の如く立つ居つ
「はて不思議や、初めの姿は犬の形。いままた念珠をこのようにかざして映せばわが面影。心の迷いか見間違いか」と合点がゆかず、数珠を押し隠して映せばまたも恐ろしい犬の姿にぞっとして、数珠をかざせばわが面影、隠せば犬の顔かたち。わっとばかりに声を立て、狂気のように立ったり居たり。
彼方へうろうろ此方へ倒れ、前後正体泣崩折れ、あやめも分ず歎きしが、果しなければ泣く泣くも、登る山路は剣にて、削る思ひにやうやうと、岩屋の内の苔筵、木の葉の上に坐を占めて、涙にいとど露深き、今は此世の秋の霜、消る間近き玉の緒と、心細くも念誦ある、いとゞ哀れを添んとや、妻恋ふ鹿の声澄みて、谺に響く山彦の、風もの凄く更渡る
あちらへうろうろ、こちらへ倒れ、前後も正体もなく泣き崩れ、わけも分からず嘆いたが、きりがないので泣く泣くも、登る山路は剣で削る思い。ようように岩屋の内の苔筵、木の葉の上に座を占めて、涙にいとど露深く、いまはこの世の秋の霜、消える間近い命の玉の緒と、心細くも念誦なさる。いっそう哀れを添えようとするのか、妻恋う鹿の声が澄んで、谺に響く山彦に、風もものすごく夜は更け渡る。
更渡り冴行く月もいとゞなほ、最早此世の名残の勤、急がんものと御経の、紐をとくとく繰返し、第五の巻の提婆品、仏の誓ひ違はずば、女人成仏なさしめ給へと押戴きて高らかに、御声清く読誦ある、経の功力と妙音の声に感じて八房が聞居る所を
更け渡り冴えゆく月もいよいよなお。もはやこの世の名残の勤めを急ごうと、お経の紐を解いては繰り返し、第五の巻の提婆品——仏の誓いが違わぬなら女人成仏をなさしめ給えと押しいただいて、高らかに御声清く読誦なさる。経の功力と妙なる声に感じて、八房が聞き入っているところを。
彼処より太腹どうと打抜く筒音、余れる玉に姫君も、肩先打れ伏し給ふ
彼方から太腹をどうと打ち抜く筒音。それた弾に姫君も肩先を撃たれてお伏しになる。
向ふの森の茂みより、現れ出でたる金鞠大助、折しも雲間に入月の、火縄打振り探り寄る
向こうの森の茂みから現れ出た金鞠大助。折しも月は雲間に入り、火縄を打ち振り、手探りで寄って来る。
此方の藪より義実公、狩装束弓杖つき、探り探りて手にあたる鉄砲をむづと取り、互に引あふ途端と途端、遥か彼方へ投退けたり、又立寄て弓に手を、懸て引あふ其折から、雲間を出る月影に、互に顔を見合せて
こちらの藪からは義実公が狩装束で弓杖をつき、手探りのうちに手に当たる鉄砲をむずと取り、互いに引き合った途端、遥か彼方へ投げのけた。また立ち寄って弓に手を掛け引き合うその折から、雲間を出る月影に、互いに顔を見合わせて。
御主君にてわたらせ給ふか
「御主君でいらせられますか。」
左言ふは金鞠大助か、これはいかに
「そう言うのは金鞠大助か。これはいかに。」
コリヤどうぢやと、呆れて言葉もなかりけり、大助は遥かにすさり
「こりゃどうじゃ」と、呆れて言葉もない。大助は遥かにさがり。
御使を仕損じたる私なれば、一つの功を立たる上、御詫と存ぜし所、噂に聞たる富山の有様、かの畜生を打殺し、姫君の御供して、再び帰参と此山へ、忍びて夜毎登りしかど、八房に出合ず、扨は畜生山をかへしか、姫君を取返さずば何を手柄に金鞠が、頼みの鎖も切果て、腹切んと幾度か、柄に手は懸けたれども、功もなさで相果なば、愈々不忠の名はのかれずと、洲先の行者へ祈誓をかけ、此所へ来り見れば、姫君には御経を高らかに読給ふ御傍にはかの畜生、憎さも憎しと覗ひを定め二ッ玉にて打留たり、姫君はいづくにおはす、伏姫さま姫君さまと、呼ど答は山彦の、谺に響く水の音、是は不思議と両人が、さがす岩屋の傍には、八房が斃れし死骸、内とすかせばこはいかに、打伏給ふ伏君の、姿に驚く大助が、胸は早鐘気は狂乱、チエヽ口惜しやな、畜生奴を打放したる鉄砲に、手強く仕込し玉薬、余り強くし姫君に、手を負せしか残念やと、余りの事に茫然と、呆れ果たる計りなり
「お使いを仕損じた私ゆえ、ひとつの功を立てた上でお詫びをと存じたところ、噂に聞いた富山の有様。あの畜生を撃ち殺し、姫君のお供をして再び帰参をと、この山へ忍んで夜ごと登りましたが八房に出会わず。さては畜生、山を移ったか。姫君を取り返さずば何を手柄に——金鞠の頼みの鎖も切れ果て、腹を切ろうと幾度か柄に手をかけましたが、功も立てずに果てればいよいよ不忠の名は逃れられぬと、洲崎の行者へ祈誓をかけ、ここへ来てみれば、姫君は御経を高らかにお読みなさる、お傍にはあの畜生。憎さも憎しと狙いを定め、二つ玉で撃ち留めました。姫君はどこにおいでです。伏姫さま、姫君さま」と呼べど、答えは山彦、谺に響く水の音。これは不思議と二人が探す岩屋のかたわらには八房の斃れた亡骸。内を透かせば——これはいかに、打ち伏しなさる伏姫の姿。驚く大助の胸は早鐘、気は狂乱。「ちえ、口惜しやな。畜生めを撃ち放した鉄砲に、強く仕込んだ玉薬が強すぎて、姫君に手を負わせたか。残念や」と、あまりのことに茫然と、呆れ果てるばかりである。
義実公は立より給ひ、急所はよけて擦り疵、それと用意の印籠を、差出し給へば、大助は伏姫を抱起し、気付を含ませ耳に口、伏姫さま姫君さまいのうと、声を限りに呼生れば
義実公は立ち寄りなされ、「急所はよけて擦り疵」と、用意の印籠を差し出しなされば、大助は伏姫を抱き起こし、気付け薬を含ませて耳に口を寄せ、「伏姫さま、姫君さま、いのう」と、声を限りに呼び返せば。
息ふきかへし目を開き、ムヽ
息を吹き返して目を開き、「むう。」
ヲヽ気が付たるか
「おお、気がついたか。」
御気が付きましたか
「お気がつかれましたか。」
アヽヽヽヽ父上様か、そなたは大助
「ああ——父上さまか。そなたは大助。」
姫君様お手は浅い、御心確にお持あそばせ、大切の御身の上、憎き畜生二つには、功を立んと二ッ玉にて打たれど、玉が余りて勿体なや、姫君までも、あやまちし、此身の罪のいかにせん、科に科を重ねし某、せめて冥土で申訳と、刀の柄に手をかくれば
「姫君さま、お手傷は浅うございます。お心確かにお持ちあそばせ。大切のお身の上——憎い畜生を討ち、二つには功を立てようと二つ玉で撃ちましたが、玉がそれて勿体なや、姫君にまで過ちを。この身の罪をどうしよう。科に科を重ねたそれがし、せめて冥土で申し訳を」と、刀の柄に手をかければ。
ヤレ待て大助早まるな、某がいふ事ありと押止め、如何に両人慥に聞け、戯の一言にてかゝる返事を引出せしも身があやまり、悔んで返らぬ因果の理屈、思ひ出せば一昔、大助が父金鞠八郎、大功を立ながら恩をしやして忠死の折柄、孤子の大助をもり立て、伏姫に娶合せんと心の約束、年月は立たれども、戦国の習ひにて婚姻の暇なく、其儘に打捨たり、誰知ねども我心に、許せし聟は大助なり、八房を打たる玉の余りて姫が手疵も理屈、女敵討しも同じ事と
「やれ待て大助、早まるな。それがしに言うことがある」と押しとどめ、「いかに両人、確かに聞け。戯れの一言でかかる返事を引き出したのも身の誤り。悔やんで返らぬ因果の理屈。思い出せばひと昔、大助の父金鞠八郎は大功を立てながら、恩に浴さず忠死した折から、孤児の大助をもり立てて伏姫に娶わせようと心に約束した。年月は経ったが戦国の習いで婚姻の暇なく、そのままに打ち捨てていた。誰も知らぬがわが心に許した聟は大助である。八房を撃った玉がそれて姫が手疵を負ったのも理屈、女敵を討ったのも同じこと」と。
言より早く伏姫は、用意の懐剣抜く手も見せず我腹へ、柄も透れと突き立てる
言うより早く伏姫は、用意の懐剣を抜く手も見せずわが腹へ、柄も通れと突き立てる。
是はと斗り義実公、大助も走り寄り、姫が脇腹しつかと押へ、コリヤ何故の御生害、狂気ばし召れしか、但しは拙者へ面当か、チエヽ情なき御自害と、抱きいたはる介抱に、姫は苦しき息をつき
「これは」とばかり義実公、大助も走り寄り、姫の脇腹をしっかと押さえ、「こりゃ何ゆえのご生害。ご乱心なされたか、それとも拙者への面当てか。ちえ、情けないご自害」と抱きいたわる介抱に、姫は苦しい息をつき。
父上の御咄にて、初めて聞たる我身の上、死ねばならぬ因果の道理、父上さま大助どの、一通りお聞なされて下さりませ、父の一言反古にせじと八房に伴はれ、此の山へ入しより、法華経読誦に他念なく、今日まで肌身は汚されねども、何時しかたゞならぬ身となつて、いかなる病と訝かるうち、最前奇しき草刈童、未前を示す不思議の言葉、胎内に犬の精気、自然とやどるも定まる業と、説示して掻消す如く姿の失しは、疑ひなき洲先の行者の御告と思へば、おめおめ生て居て犬の子を産ならば、我身ばかりか父上まで、末代までの御恥辱、二つには大助どの、父の心に我夫と、定めし人へ申訳、夫故覚悟の此自害と、語る、内にも湧き出づる、血汐の瀧の四苦八苦、涙は袖に淵なして、見る目もいとど哀れなり
「父上のお話で初めて聞いたわが身の上。死なねばならぬ因果の道理を、父上さま、大助どの、ひととおりお聞きなされてくださりませ。父の一言を反古にすまいと八房に伴われてこの山へ入ってから、法華経読誦に他念なく、今日まで肌身は汚されておりませぬが、いつしかただならぬ身となって、いかなる病かといぶかるうち、さきほどの怪しい草刈り童が、まだ来ぬ先のことを示す不思議な言葉——胎内に犬の精気が自然と宿るのも定まる業と説き示して、掻き消すように姿の失せたのは、疑いもなく洲崎の行者のお告げと思えば、おめおめ生きて犬の子を産むなら、わが身ばかりか父上まで末代までのご恥辱。二つには大助どの、父の心にわが夫と定めた人への申し訳。それゆえ覚悟のこの自害」と語る、そのうちにも湧き出る血汐の滝の四苦八苦。涙は袖に淵をなして、見る目もいっそう哀れである。
義実公は涙を払ひ、ハヽ孝貞義女とも言つべし、国の為家の為、親の為に其身を捨て深山に入乍ら、畜生に汚されず一念腹に宿りしを恥ぢ、大助への言訳切腹とは出かされたり、是皆玉梓が悪霊なりと、夢の告にて委しく知る、その証拠には水晶の数珠、最期の際には元の文字にかへるべしと、仏の告の其念珠、大助是へとのたまへば
義実公は涙を払い、「はは、孝貞の義女とも言うべきである。国のため家のため、親のためにその身を捨てて深山に入りながら、畜生に汚されず、一念が腹に宿ったのを恥じ、大助への言い訳に切腹とは出かされた。これはみな玉梓の悪霊であると、夢のお告げで詳しく知った。その証拠には水晶の数珠が、最期の際には元の文字に返るはずと、仏のお告げのその念珠。大助、これへ」とのたまえば。
ハツト答へて伏姫が、首にかけたる水晶の、念珠を取て奉る
「はっ」と答えて、伏姫が首にかけた水晶の念珠を取って奉る。
義実公はつくづくと、月にかざしてとつくと眺め、さてこそさてこそ、如是畜生の文字は消て元の如く、仁義礼智孝貞忠信の、八ッの文字となりたるは、是ぞ悪霊解脱のしるし
義実公はつくづくと月にかざしてとくと眺め、「さてこそ、さてこそ。如是畜生の文字は消えて元のごとく、仁義礼智孝貞忠信の八つの文字となったのは、これぞ悪霊解脱のしるし。」
と聞に伏姫顔をあげ、斯る不思議の御告を、見る上からは迷ひの雲、晴渡りたる心の涼しさ、此世に思ひ置ことなし、仏の告と物語、胎内に宿りし精気、水晶の数珠の功力と、法華経の功徳によつて、八つの子も里見の家の忠臣と、生れ変ると聞くからは、自らが一念の神と成て、八の玉八人の忠臣の子胤となさん、是見給へと痛手も屈せず気丈の有様、数珠押揉んで声高く
と聞いて伏姫は顔をあげ、「かかる不思議のお告げを見るからは、迷いの雲も晴れ渡った心の涼しさ。この世に思い置くことはない。仏のお告げと物語、胎内に宿った精気は、水晶の数珠の功力と法華経の功徳によって、八つの子も里見の家の忠臣と生まれ変わると聞くからは、わたくしの一念が神となって、八つの玉を八人の忠臣の子胤としよう。これ見給え」と、痛手にも屈せぬ気丈のありさま。数珠を押し揉んで声高く。
南無神変大菩薩、奇特を茲に見せ給へと、一心凝したる祈念の信力、念珠持添へ九寸五分、きりりきりりと引廻す、時に不思議や震動なし、颯と吹き来る風諸共、念珠は切て八つ玉、虚空へ巻上霊々と、光を放つて飛散たり、又ひき廻す疵口より、走る血汐は唐紅色、見えみ見えずみ朦朧と、影は八つの犬の形、同じく空へ飛去ける、奇代の不思議に義実大助、空うち守るばかりなり
「南無神変大菩薩、奇特をここに見せ給え」と、一心を凝らした祈念の信力。念珠を持ち添えた九寸五分を、きりりきりりと引き廻す。時に不思議や震動して、さっと吹き来る風もろとも、念珠は切れて八つの玉、虚空へ巻き上げ霊々と光を放って飛び散った。また引き廻す疵口から走る血汐は唐紅、見えつ隠れつ朦朧と、影は八つの犬の形、同じく空へ飛び去った。世にも稀な不思議に、義実も大助も空を見守るばかりである。
大助は涙を払ひ、某は武道をすて、功を立ざる犬武士、犬といふ字を二つに分け、丶大と直に名乗るべしと、髻ふつと切払ひ、両腰取て投出し、是より直に仏の道、諸国修業も姫君の、後世の追善二つには、散たる玉を持たる勇士、尋ね探して二代の忠臣、見付出すはこの丶大と
大助は涙を払い、「それがしは武道を捨てる。功を立てぬ犬武士——犬という字を二つに分け、丶大とただちに名乗ろう」と、髻をふっつと切り払い、大小を取って投げ出し、「これよりただちに仏の道。諸国修行も、ひとつには姫君の後世の追善、二つには散った玉を持つ勇士を尋ね探して、二代の忠臣を見つけ出すのはこの丶大」と。
いふに義実目をしばたヽき、天晴忠臣感じ入る、さは去ながら不愍の最期娘伏姫、成仏せよと父がいまはの一言に、伏姫は目をひらき、アヽ嬉しや本望や、念願成就の上からは、一時も早う西方浄土、父上様おさらば、大助さらばも舌強がり、今ぞこの身の知死期時、南無阿弥陀仏と丶大坊、唱ふる声と諸共に、剣をぬけばがつくりと、散て果敢なくなりにけり、義実公も恩愛の、血流の涙はらはらはら、丶大も共にため涙、一度に滝と漲りて、水も増たる谷川に、巌も流す許りなり
と言うので義実は目をしばたたき、「あっぱれ忠臣」と感じ入る。「さはさりながら不憫の最期。娘伏姫、成仏せよ」と父の今わの一言に、伏姫は目をひらき、「ああ嬉しや本望や。念願成就の上からは、一時も早く西方浄土へ。父上さま、おさらば。大助、さらば」も舌こわばり、今ぞこの身の最期の時。南無阿弥陀仏と丶大坊の唱える声とともに、剣を抜けばがっくりと、散ってはかなくなったのであった。義実公も恩愛の血筋の涙をはらはらはら、丶大もともにため涙、一度に滝とみなぎって、水かさの増した谷川に巌も流すばかりである。
義実公はやうやうと、はてし涙を押拭ひ、是より丶大は当国より、東八ヶ国を徘徊なし、尋ねて勇士を求めよと、仰せに丶大は勇み立ち、仰せにや及ぶべき、犬の精気を受たるは、取も直さず八犬士、尋ね出すは案の内、気遣ひ給ふな我君と、矢猛心の梓弓、引ば引るゝ後髪、見れば見にうく水晶の、玉を欺く白露に、草の袂も白膠木の紅葉、産れぬ先の故郷へ、錺る錦の色々や、仮の浮世の仮も仮、枕に残る法華経の、功徳は深き八つの玉、八犬伝と読本に、千代も伝へて常磐津の、節に残るぞ勇ましゝ
義実公はようように涙を押しぬぐい、「これより丶大は当国から東八ヶ国を徘徊して、尋ねて勇士を求めよ」との仰せに、丶大は勇み立ち、「仰せに及びましょうか。犬の精気を受けたのは取りも直さず八犬士。尋ね出すのは思いのうち。気遣いなさるなわが君」と、矢猛心の梓弓、引けば引かれる後ろ髪。見れば実に浮かぶ水晶の玉かと見まがう白露に、草の袂も白膠木の紅葉、生まれぬ先の故郷へ飾る錦の色々よ。仮の浮世の仮のまた仮、枕に残る法華経の功徳は深い八つの玉。八犬伝と読本に千代も伝えて、常磐津の節に残るぞ勇ましい。
この曲は常磐津。詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第四編 常磐津集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開し、合方の指示は省いた。
本名題は『八犬義士誉勇猛』。原典は上下二巻に分けて載せるが一曲なのでひと続きにした(上三十一段・下二十六段)。作詞者・作曲者・初演年は原典に記載がない。
曲亭馬琴の読本『南総里見八犬伝』の発端、伏姫と八房の富山の一段による。読本の伏姫は嘉吉より後の長禄・文明ごろの人だが、詞章は「嘉吉二年の春」とする。原典のまま改めていない。
終わりに伏姫が自害して果てる件がある。席によっては扱いに心を配りたい。
「御花園院」は後花園院の当て字。「倫言」は綸言(天子・主君の言葉)の当て字。いずれも原典のまま残した。
「濁世煩悩」からの一段は『平家物語』冒頭の文句を取り込み、続く四季の一段は伏姫の山住まいを春夏秋冬に配した名文として知られる。
「棄恩入無為報恩者」は出家の偈の句。恩を棄てて無為(仏道)に入ることこそ真の報恩であるとする。
「鶴は千歳にして尾らず」以下の童子の弁は、交わらずして孕む先例を挙げたもの。「干将莫耶」は呉の刀工夫婦の名剣の故事。
「如是畜生」の文字が「仁義礼智孝貞忠信」の八文字に返る水晶の数珠、八つの玉が虚空へ飛び散る件は、八犬士それぞれの玉の由来である。
「丶大」は犬の字を丶と大に分けた法号。読本では「ちゅだい」と読む。
「洲先」は洲崎(現・館山市洲崎)の当て字、役の行者を祀る岩屋があった。「富山」は南房総の山。
「はつはり」(つわり)「青潤」「かへし」(山をかへしか)など、今日と異なる言いまわしは原典のまま残した。
次の語は意味の定まらないところで、推測で埋めず原典のまま残した。「七巡りして坂道を」「恩をしやして」「見にうく水晶の」。
流儀・稽古本によって仮名遣いや字句に異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。