藤舎の紋 藤舎名玄TOSHA MEIGEN ― 詞章ライブラリーへ戻る
常磐津

八犬伝富山の段はっけんでんとやまのだん

常磐津  本名題『八犬義士誉勇猛』  作詞者・作曲者・初演年不詳

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八犬伝富山の段 岩屋の伏姫と八房
岩屋の伏姫と八房

曲亭馬琴の読本『南総里見八犬伝』の発端、伏姫と八房の富山の一段による。前半は樵夫たちの噂話と、富山の岩屋にひとり住む伏姫の四季。怪しい草刈り童が現れて懐胎の因果を告げる。後半は父義実と金鞠大助が山に入り、大助の放った弾が八房もろとも伏姫を傷つける。伏姫は身の潔白を明かして自害し、水晶の数珠が八つの玉となって飛び散り、八犬士誕生の因縁が語られる。終わりに伏姫の死ぬ件があり、席によっては扱いに心を配りたい。

あらすじ

獅子は谷へ子を落としてその勇を知り、犬が夜を守るのは義であり勇である。頃は嘉吉二年の春、結城の戦に敗れた里見義実は南総滝田の城主となったが、安西の奸計で危うかった折、戯れに「安西の首を取れば姫をやろう」と言った一言から、飼犬八房が敵将の首を取り、伏姫は父の綸言を立てて八房に伴われ富山の奥に籠る。麓の高札の前では樵夫たちがその噂を語り合う。人跡絶えた山の岩屋で、伏姫は苔の筵に座して法華経を読誦し、春の山桜から冬の白雪まで四季をひとりで送る。ある日、人も通わぬ深山に笛の音がして、牛に乗った草刈り童が現れる。わが身の不調を問えば、童はそれは懐胎のしるしと言い、交わらずとも一念が凝って胎内に宿る八つ子の因果、されど水晶の数珠と法華経の功力で、やがて里見の家の忠臣と生まれ変わると告げて掻き消える。洲崎の行者のお告げと悟った伏姫は、水面に映るわが姿が犬の顔となる不思議に取り乱し、もはやこれまでと覚悟を定める。夜更けて名残の勤めに提婆品を読誦するところへ、筒音一発——功名を立てて帰参をと山に忍んでいた金鞠大助の二つ玉が八房を撃ち留め、それた弾が伏姫の肩先を傷つける。狩装束の義実も来合わせ、主従は暗闇の中で顔を見合わせる。義実は、大助の父金鞠八郎への恩義から心のうちで大助を聟と定めていたと明かすが、伏姫は言うより早く懐剣をわが腹へ突き立てる。おめおめ生きて犬の子を産めば父の恥辱、心に定められた人への申し訳と、覚悟の自害を語る姫。義実が月にかざした水晶の数珠は、如是畜生の文字が消えて仁義礼智孝貞忠信の八文字に返り、悪霊解脱のしるしを見せる。伏姫は「わが一念を神として、八つの玉を八人の忠臣の子胤としよう」と数珠を押し揉んで祈れば、念珠は切れて八つの玉が光を放って虚空へ飛び散り、疵口からは八つの犬の形の影が空へ去る。大助は髻を切って丶大と名乗り、玉を持つ勇士を探す誓いを立てる。伏姫は本望と念仏の声のうちにはかなくなり、丶大は東八ヶ国へ勇士を尋ねる旅に立つ。八犬伝と読本に千代も伝えて、常磐津の節に残るぞ勇ましい。

詞章と現代語訳

獅子ししたにおとしてそのゆうり、とらかはわたすはなり、いぬまもるはなりゆうなり、しゆううやましゆうるはこれれいなり、そのしよくまもりてわたくしなきもまたかくのごとしとかや、御代みよをさまりてくもりなき、天津日嗣あまつひつぎももつきあまり、御花園院ごはなぞのゐん御宇ぎようとかや、ころ嘉吉かきつ二年にねんはる結城ゆふきいくさやぶれてのち里見又太郎義実さとみまたたらうよしざねこうふたたいへおこさんと南総なんそう押渡おしわたり、滝田たきた城主じやうしゆときめきしが、安西あんざい奸計かんけいにてすであやふそのをりから、八房やつふさともなはれ富山とやまおく山住居やまずまゐふもとたち高札かうさつまへやすらふ樵夫きこりども、あだ口々くちぐち高談かうだん

獅子は谷へ子を落としてその勇を知り、虎が河を渡るのは智である。犬が夜を守るのは義であり勇であり、主を敬い主を知るのは礼である。その職を守って私心のないこともまた、このとおりだという。御代は治まって曇りなく、天津日嗣は百代あまり、後花園院の御宇とか。頃は嘉吉二年の春、結城の戦に敗れたのち、里見又太郎義実公は再び家を起こそうと南総へ渡り、滝田の城主として時めいたが、安西の奸計ですでに危うかったその折から——姫は八房に伴われて富山の奥の山住まい。麓に立った高札の前で休む樵夫たちが、気ままに口々に話し合う。

なん杢助もくすけこのふだたつてから二年越にねんごやまいらぬが、さぞ枯木かれき出来できたであらう、モウよい加減かげんやまひらいてくださればよいになア、わしはゆうふでぢやによつて高札かうさつめず、自体じたいどういふことぢやナ、わらすけなにふぞへ、そんなら、汝侶おのれらはまだしらぬか、滝田たきた御城主様ごじやうしゆさまのお姫様ひめさま八房やつふさといふいぬ一緒いつしよこのやまにおすまひなされて御座ござるけな、ワレまたどうしておひめさまとそのいぬが、おらもくはしいわけしらぬが、夫故それゆゑ樵夫きこり山賤やまがついふおよばず、狩人かりうどまた草刈くさかりまでやまのぼるをおめなされたといふことと、はなそばから狩人かりうど鉄八てつぱちすすり、コレコレそのくはしいはなしかならずするなと庄屋殿しやうやどの言付いひつけなれど、ほか聞者きくものもないふもと、おらがはなしてきかさうわへ、かうと一昨年をととし難渋年なんじふどし、おかみ兵糧ひやうらうきたをりから、安西あんざい八方はつぱうよりたたかる、いま落城らくじやういふときに、殿様とのさま八房やつふさ安西あんざいくびをとらばひめをやらうといふたげな、それ聞分ききわ八房やつふさいぬ大手おほてはしで、安西あんざいくびくはへて殿様とのさままへき、大将たいしやうなければたちまちに安西方あんざいがたほろびたり、八房やつふさ姫君ひめぎみ振袖ふりそで引咬ひきくはへて引立ひきたてる、殿様とのさまはら突殺つきころさんとしたまふを、お姫様ひめさまたてとなり、きみおほせ倫言りんげん同然どうぜんでてかへらぬこの因果いんぐわ安西あんざいくびとりしは八房やつふさ手柄てがらなり、くにためいへためすつるはをしからず、八房やつふさともなはれこの富山とやま奥住居おくずまゐ、それゆゑこのやまのぼることおめなされた、なんみなしゆういたはしいことぢやないかいのう、といふ杢助もくすけはなすゝり、鉄八てつぱち講釈かうしやくでさらりとわかつたいぬはなし大将たいしやうくびとつてお姫様ひめさまもらふとは、羨望うらやましいことぢやないか、これからおらもいくさがあつたら雑兵ざふひやうくびなとひろふておすゑ一人ひとりもらはうわいのう

「なんと杢助、この札が立ってから二年越しで山へ入れないが、さぞ枯木がたまったろう。もういい加減に山を開いてくださればよいのになあ。わしは筆が読めないから高札は読めぬが、いったいどういうことじゃな。」「わら助、何を言うぞえ。それならお前たちはまだ知らぬか。滝田のご城主さまのお姫さまが、八房という犬と一緒にこの山にお住まいなされているそうな。」「これはまた、どうしてお姫さまとその犬が。」「おれも詳しい訳は知らぬが、それゆえに樵夫や山賤は言うに及ばず、狩人も草刈りも山に登るのをお止めなされたということだ。」——話すそばから狩人の鉄八が進み寄り、「これこれ、その詳しい話は決してするなと庄屋どののお言いつけだが、ほかに聞く者もないこの麓、おれが話して聞かせよう。一昨年の難渋の年、お上に兵糧の尽きた折から、安西が八方から攻め寄せ、今や落城というときに、殿さまが『八房、安西の首を取ったら姫をやろう』と言うたそうな。それを聞き分けた八房は大手を走り出て、安西の首をくわえて殿さまの前に置いた。大将を失った安西方はたちまち亡びた。八房は姫君の振袖をくわえて引き立てる。殿さまは腹を立てて突き殺そうとなさるのを、お姫さまは楯となり、『君の仰せは綸言も同然。出て帰らぬこの身の因果、安西の首を取ったのは八房の手柄。国のため家のため、身を捨てるのは惜しくない』と、八房に伴われてこの富山の奥住まい。それゆえこの山へ登ることをお止めなされたのだ。なんと皆の衆、痛わしいことではないかいのう。」と言えば杢助は鼻をすすり、「鉄八の講釈でさらりと解った犬の話。大将の首を取ってお姫さまをもらうとは、うらやましいことではないか。これからおれも戦があったら、雑兵の首でも拾って、お末のひとりももらおうわいのう。」

あとわらひを樵夫きこりども、なうなうと夕間暮ゆふまぐれ我家わがや我家わがやもど

あとに笑い声を残して樵夫たちは、帰ろう帰ろうと夕間暮れ、めいめいの家へ戻ってゆく。

濁世ぢよくせ煩悩ぼんなう色欲界しきよくかいたれ五塵ごぢん火宅くわたくのがれて、祇園精舎ぎをんしやうじやかねこゑ諸行無常しよぎやうむじやうひびきなれ、さらぬだにあきさびしきものなるに、人跡じんせきたえ富山とやまおくふもとうづ落葉おちばには、盛者必衰じやうしやひつすゐことわりしめし、こだまひび瀧津瀬たきつせ山又山やままたやま松風まつかぜを、寐覚ねざめとも身一みひとつに、さとりすまして里見さとみ伏姫ふせひめ

濁世は煩悩と色欲の世界、誰が五塵の火宅を逃れられよう。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きである。そうでなくても秋は寂しいものなのに、人跡の絶えた富山の奥、麓に埋もれる落葉は盛者必衰の理を示し、谺に響く滝つ瀬と山また山の松風を寝覚めの友に、ただ身ひとつで悟りすました里見伏姫。

こけむしろめて、となふるきやう黄鳥うぐひすの、はるれば八重霞やへがすみはな遠目とほめゆれども、くもにはちか山桜やまざくら弥生やよひさと雛遊ひなあそび、女夫めをと双居ならびゐ今朝けさぞつむ、もなつかしき母子草ははこぐさたれ搗初つきそめヶのの、もちにあらむ菱形ひしがたの、腰懸石こしかけいしはだふれて、やゝあたた苔衣こけごろも脱替ぬぎかへねどもなつたもとすずしき谷風たにかぜに、くしけづらして夕立ゆふだちの、あめにあらふてかみの、よもぎしたむしの、あきとしなれば色々いろいろに、岩間いはま紅葉もみぢうつし、にしきとこ仮初かりそめの、宿やどとしらでや鹿しかく、水沢みづさは時雨しぐれ晴間はれまなき、はてはそことも白雪しらゆきの、はだにやれたる振袖ふりそでを、かゝげてむろ立出たちいでたま

苔の筵に座を占めて唱える経も、鶯の声とともに。春が去り来れば八重霞、花は遠目に見えるけれど、雲には近い山桜。弥生は里の雛遊び、夫婦むつまじく並んで今朝摘む、名もなつかしい母子草。誰が搗き初めた三が日の餅かと思う菱形の腰掛石も、肌に触れてやや暖かい。苔の衣は脱ぎ替えないが、夏の夜は袂も涼しい谷風に髪を梳かせ、夕立の雨に洗って干す。蓬の下に鳴く虫の、秋ともなれば色々に岩間の紅葉が織り映えて、錦の床のかりそめの宿とも知らずに鹿が鳴く。水沢の時雨は晴れ間なく、果てはそこかしこも白雪。肌に破れた振袖をかかげて、岩屋を立ち出でなされ。

棄恩入無為きおんにふむゐ報恩者はうおんしや御仏みほとけとかたまふ、恩愛おんあい別離べつりかなしみも、みな父上ちちうへ御為おんためなるに、なつかしとおもたてまつるは、罪深つみふかことぞかし、三世さんぜ諸仏しよぶつゆるさせたまへいざや

「恩を棄てて無為に入るは報恩の者と御仏は説きなされた。恩愛別離の悲しみも、みな父上の御為であるのに、なつかしいと思い申すのは罪深いことぞ。三世の諸仏、お許しくだされ。いざ。」

はなたてまつらん、おゝさうぢや

「花をお供えしよう。おお、そうじゃ。」

手許てもとやさしく閼伽手桶あかておけ御法みのりきく露雫つゆしづくながれのおと山彦やまびこの、それかあらぬかかぜならで、はるかにきこゆるふえに、伏姫ふせひめみみかたむたま

手もとやさしく閼伽の手桶、御法も菊の露しずく。流れの音も山彦の——それかあらぬか、風ではなく、遥かに聞こえる笛の音に、伏姫は耳を傾けなされ。

おもらざるあのふえわらはやまりしより、昨日きのふまで今日けふまでも、かりするをとこたきぎる、しづかよはぬこの深山みやまめづらしいアノ音色ねいろ草刈童くさかりわらべまよりしか、ただしは狐狸こり山鬼さんきか、障碍しやうげをなしてみづからが、道心だうしんくじかんためか、なににもせよこころならざるすさみぢやなナ

「思いも寄らないあの笛の音。わたくしが山へ入ってから、昨日まで今日まで、狩する男も薪を樵る賤も通わないこの深山に、珍しいあの音色。草刈りの童が迷い込んだのか、それとも狐狸か山鬼が障碍をなして、わたくしの道心をくじこうとするのか。何にせよ、心得ぬすさびじゃなあ。」

やりたまへばむかふより、まだ振分ふりわけのおどろがみとしはやうやうななつ、七巡ななめぐりして坂道さかみちうしにゆられてきたりける、姫君ひめぎみしばしと呼止よびと

と見やりなされば、向こうから、まだ振分け髪のおどろ髪、年はようやく六つ七つの童が、七巡りして坂道を牛にゆられて来た。姫君はしばしと呼び止め。

ノウノウわらべひとかよはぬこの深山みやまのぼりしは心得こころえず、そなたはいづれのさとぞ、きかしやとのたまへば

「のうのう童、人も通わぬこの深山へ登って来たのは合点がゆかぬ。そなたはどこの里の子ぞ。聞きたいものよ」とのたまえば。

ヲヽわしは牛馬うしうまのためにくさるものではない、お師匠様ししやうさま使つかはるゝもの今日けふこのやまくすりりにのぼりました

「おお、わしは牛や馬のために草を刈る者ではない。お師匠さまに使われる者で、今日この山へ薬を採りに登りました。」

ムヽくすりをとりにといやるからは、そなたの師匠ししやうはお医者いしやよな、シテその住居すまゐ

「むう、薬を採りにと言うからは、そなたの師匠はお医者よな。して、その住まいは。」

ヲヽこのやまふもとみ、またあるとき洲先すさきにあり、つねにはひとやまひし、またあるときはしをとり、ひと吉凶きつきよう禍福くわふくうらなひ、あるひ雨乞あまごひ日和ひより加持かぢ天地てんちあひだにありとあらゆること、しらざることはましまさずと、いとさかしげにかたりける

「おお、この山の麓に住み、またある時は洲崎にあり、常には人の病を治し、またある時は筮をとって人の吉凶禍福を占い、あるいは雨乞い日和の加持——天地の間にありとあらゆること、知らぬことはおありでない」と、いかにも賢しげに語った。

ムヽそんならそなたもやまひみちききつらん、みづからはさいつころよりましむねくるしく、次第しだい次第しだいおもきは奈何いかなるやまひぞ、するくすりもあるならばをしへてたもとのたまへば

「むう、それならそなたも病の道は聞いていよう。わたくしはこのごろから夜に日に増して胸苦しく、しだいしだいに身が重くなるのはいかなる病ぞ。治す薬もあるならば教えてたも」とのたまえば。

ヲヽそれこそはつはりのしるしまたした青潤せいじゆんとて、あをいろえたるは、胎内たいないはらみ、産月うみづきちかづきしと、いふ伏姫ふせひめ打笑うちわら

「おお、それこそつわりのしるし。また目の下に青潤といって青い色が見えるのは、胎内に子をはらみ、産み月も近づいたのだ」と言うので、伏姫はお笑いになり。

ヲヽアノとしたことが、流石さすがとしゆかざるしるし、わけはなしてきかすべし、此方こなたよと

「おお、あの子としたことが。さすがは年のゆかぬしるし。訳を話して聞かせよう。こちらへ来よ」と。

まねたまへばうれしげに、うしより飛下とびおりて、おそばちかあゆる、伏姫君ふせひめぎみ閼伽桶あかをけの、きく一枝ひとえだとりたま

招きなされば嬉しげに牛の背から飛び下りて、お傍近く歩み寄る。伏姫君は閼伽桶の菊の一枝を手にお取りになり。

コレこのはなほしうはないかや

「これ、この花は欲しくないかや。」

ヲヽくだされやと

「おお、くだされや」と。

もつれかゝるもあいらしく、みぎひだりたはむれて、あたたまへばもち

もつれかかるのも愛らしく、右よ左よと戯れて、お与えなされば手に持って。

これ御覧ごらんぜよこのはなの、たれそだてねど秋毎あきごとおのれとさく雨露あめつゆの、めぐみをうけ千代見草ちよみぐさ

「これご覧なされ、この花の。誰が育てるでもなく秋ごとにおのずから咲くのも、雨露の恵みを受けた千代見草。」

齢草よはひぐさともさまざまに、異名いみやうおほ黄金草こがねぐさ姿すがたやさしき乙女草をとめぐさ、いざ白菊しらぎく御身おんみにも、宿やどさぬとは言難いひがたし、といへば姫君ひめぎみ微笑ほほゑみて、いやとよそれ僻事ひがごとよ、をつととてもなき独身ひとりみに、嬰兒みどりごうむべきやうはなし

「齢草ともさまざまに異名の多い黄金草、姿やさしい乙女草。いざ、白菊のような御身にも、子を宿さぬとは言い難い」と言えば、姫君は微笑んで、「いやとよ、それはひが事よ。夫とてもない独り身に、嬰児を産めるはずはない。」

をつとなしとは言難いひがたし、おやゆるせし八房やつふさの、いぬすなはをつとなり、といふに姫君ひめぎみ姿すがたあらた

「夫がないとは言い難い。親の許した八房の犬は、すなわち夫である」と言うので、姫君は姿を改め。

そなたはそのはじめをしつて其後そのあとしらぬなり、御経おんきやう功力くりきにてさいはけがされず、なに悲類ひるゐ八房やつふさ我身わがみきよいさぎよし、かみこそしらたまひなん、といへば童子どうじ打笑うちわらひ、姫君ひめぎみこそいちしつしらぬといふものなり、まじはらぬとてはらまんや、つる千歳せんざいにしてらず、相見あひみはらうめり、むかし唐土もろこし楚王そわうきさきつね鉄金てつきんはしらいだく、つひ鉄金てつきんまるかせをうめり、すなは干将莫耶かんしやうばくやつるぎこれなり、たしかなことをかたるべし、おまへ当国たうごく里見さとみ息女そくぢよ悪霊あくりやうつき八房やつふさに、見入みいられしもさだま因果いんぐわけがされねど恋慕こひしたふ、一念いちねんつて胎内たいないに、自然しぜん宿やどやつ、されど水晶すゐしやうの、珠数じゆずとく法華経ほけきやう功力くりきによつて、末終すゑつひ里見さとみいへ忠臣ちゆうしんと、うまかはるも方便力はうべんりき、かまへてうたがたまふなよ、さらばさらばとうしるよとえしが霧霞きりかすみ、コレのうつてと伏姫ふせひめが、すがるとすれば朦朧もうろうと、姿すがたせてたちまちに、掻消かきけごとくなりにけり、はつとばかりに伏姫ふせひめは、泣崩なきくづおれてたりしが、やうやうにかほをあげ

「そなたはその初めを知って、そのあとを知らぬのだ。お経の功力で幸い身は汚されず、なんで卑しい八房などに。わが身は清く潔白、神こそご存じであろう」と言えば、童子は笑って、「姫君こそ一を知って二を知らぬというもの。交わらぬからとて孕まぬものか。鶴は千年、つるまずとも相見て孕んで子を産む。昔、唐土の楚王の妃は常に鉄金の柱を抱き、ついに鉄金の丸がねを産んだ。すなわち干将莫耶の剣がこれである。確かなことを語ろう。お前は当国里見の息女、悪霊の付いた八房に見入られたのも定まる因果。身は汚されないが、恋い慕う一念が凝って胎内に自然と宿る子は八つ子。されど身に添う水晶の数珠の徳と法華経の功力によって、末ついに里見の家の忠臣と生まれ変わるのも方便の力。決して疑いなさるなよ。さらばさらば」と牛の背に乗るよと見えたが、霧霞。「これのう、待って」と伏姫がすがろうとすれば朦朧と、姿は失せてたちまち掻き消すようになった。はっとばかりに伏姫は泣き崩れていたが、ようように顔をあげ。

さては年頃としごろ信心しんじんなす、洲先すさき行者ぎやうじや仮初かりそめに、童子どうじあらは伏姫ふせひめに、因果いんぐわさとつげたまふか、さはさりながなさけなや

「さては年ごろ信心する洲崎の行者が、かりそめに童子と現れて、伏姫に因果を諭し告げなされたか。さはさりながら、情けなや。」

我身わがみした八房やつふさが、その執心しふしん宿やどり、懐胎くわいたいせしかあさましや、とりなほさず畜生道ちくしやうだう、ノウいまはしやコハなにとせうどうせうとわつとばかりにどうとし、流涕りうていこれがたまふ、やうやうなみだぬぐ

「わが身を慕う八房の、その執心が身に宿って懐胎したのか。浅ましや。取りも直さず畜生道。のう、忌まわしや。これはどうしよう、どうしよう」と、わっとばかりにどうと伏し、涙を流してお泣きになる。ようよう涙をぬぐい。

アヽなげくまいうらむまい、とて畜生ちくしやう三界さんがいの、たね宿やどせしこのごふしもつきいぬまばこのはぢをんなながらも義実よしざねむすめにくしとおも八房やつふさを、まもがたなにさしころし、みづかとて谷川たにがはの、みづあわともてん、今日けふかぎりのつゆも、せめて未来みらい仏果ぶつくわたね、ヲヽさうぢや

「ああ、嘆くまい恨むまい。とても畜生三界の胤を宿したこの身の業。もしも月が満ちて犬の子を産むならこの身の恥。女ながらも義実が娘。憎いと思う八房を守り刀で刺し殺し、わたくしとても谷川の水の泡と消え果てよう。今日を限りの露の身も、せめて未来は仏果の種。おお、そうじゃ。」

のり手向たむけ閼伽あかみづくまんときし静々しづしづと、立寄たちよたまふにみづおもれば不思議ふしぎわが面影おもかげうつるはまさしくいぬかほ八房やつふさきたりしかとれどもかげなみおと念珠ねんじゆいただきさしうつす、かほかはらぬ面影おもかげ

法の手向けの閼伽の水を汲もうと、岸に静々と立ち寄りなされば、水の面——見れば不思議や、わが面影の映るのはまさしく犬の顔。もしや八房が来たのかと見ても、影もなくただ波の音。念珠をいただいて映し直せば、顔は変わらぬわが面影。

ハテ不思議ふしぎはじめの姿すがたいぬかたちいままた念珠ねんじゆをこのごとく、かざしてうつせば面影おもかげこころまよひか空目そらめかと、合点がてんゆかねば数珠じゆず押隠おしかくし、うつせばまたもおそろしき、いぬ姿すがたにぞつとして、数珠じゆずをかざせば面影おもかげ、かくればいぬかほかたち、わつとばかりにこゑて、狂気きやうきごと

「はて不思議や、初めの姿は犬の形。いままた念珠をこのようにかざして映せばわが面影。心の迷いか見間違いか」と合点がゆかず、数珠を押し隠して映せばまたも恐ろしい犬の姿にぞっとして、数珠をかざせばわが面影、隠せば犬の顔かたち。わっとばかりに声を立て、狂気のように立ったり居たり。

彼方あなたへうろうろ此方こなたたふれ、前後ぜんご正体しやうたい泣崩なきくづれ、あやめもわかなげきしが、はてしなければくも、のぼ山路やまぢつるぎにて、けづおもひにやうやうと、岩屋いはやうち苔筵こけむしろうへめて、なみだにいとどつゆふかき、いま此世このよあきしもきゆ間近まぢかたまと、心細こころぼそくも念誦ねんじゆある、いとゞあはれをそへんとや、つま鹿しかこゑみて、こだまひび山彦やまびこの、かぜものすごふけわた

あちらへうろうろ、こちらへ倒れ、前後も正体もなく泣き崩れ、わけも分からず嘆いたが、きりがないので泣く泣くも、登る山路は剣で削る思い。ようように岩屋の内の苔筵、木の葉の上に座を占めて、涙にいとど露深く、いまはこの世の秋の霜、消える間近い命の玉の緒と、心細くも念誦なさる。いっそう哀れを添えようとするのか、妻恋う鹿の声が澄んで、谺に響く山彦に、風もものすごく夜は更け渡る。

ふけわた冴行さえゆつきもいとゞなほ、最早もはや此世このよ名残なごりつとめいそがんものと御経おんきやうの、ひもをとくとく繰返くりかへし、第五だいごまき提婆品だいばぼんほとけちかたがはずば、女人によにん成仏じやうぶつなさしめたまへと押戴おしいただきてたからかに、御声みこゑきよ読誦どくじゆある、きやう功力くりき妙音めうおんこゑかんじて八房やつふさ聞居ききゐところ

更け渡り冴えゆく月もいよいよなお。もはやこの世の名残の勤めを急ごうと、お経の紐を解いては繰り返し、第五の巻の提婆品——仏の誓いが違わぬなら女人成仏をなさしめ給えと押しいただいて、高らかに御声清く読誦なさる。経の功力と妙なる声に感じて、八房が聞き入っているところを。

彼処かしこより太腹ふとばらどうと打抜うちぬ筒音つつおとあまれるたま姫君ひめぎみも、肩先かたさきうたたま

彼方から太腹をどうと打ち抜く筒音。それた弾に姫君も肩先を撃たれてお伏しになる。

むかふのもりしげみより、あらはでたる金鞠大助かなまりだいすけをりしも雲間くもま入月いりづきの、火縄ひなは打振うちふさぐ

向こうの森の茂みから現れ出た金鞠大助。折しも月は雲間に入り、火縄を打ち振り、手探りで寄って来る。

此方こなたやぶより義実よしざねこう狩装束かりしやうぞく弓杖ゆんづゑつき、さぐさぐりてにあたる鉄砲てつぱうをむづとり、たがひひきあふ途端とたん途端とたんはる彼方かなた投退なげのけたり、また立寄たちよつゆみを、かけひきあふそのをりから、雲間くもまいづ月影つきかげに、たがひかほ見合みあはせて

こちらの藪からは義実公が狩装束で弓杖をつき、手探りのうちに手に当たる鉄砲をむずと取り、互いに引き合った途端、遥か彼方へ投げのけた。また立ち寄って弓に手を掛け引き合うその折から、雲間を出る月影に、互いに顔を見合わせて。

御主君ごしゆくんにてわたらせたまふか

「御主君でいらせられますか。」

ふは金鞠大助かなまりだいすけか、これはいかに

「そう言うのは金鞠大助か。これはいかに。」

コリヤどうぢやと、あきれて言葉ことばもなかりけり、大助だいすけはるかにすさり

「こりゃどうじゃ」と、呆れて言葉もない。大助は遥かにさがり。

御使おつかひ仕損しそんじたるわたくしなれば、ひとつのこうたてたるうへ御詫おわびぞんぜしところうはさききたる富山とやま有様ありさま、かの畜生ちくしやう打殺うちころし、姫君ひめぎみ御供おんともして、ふたた帰参きさんこのやまへ、しのびて夜毎よごとのぼりしかど、八房やつふさ出合であはず、さて畜生ちくしやうやまをかへしか、姫君ひめぎみ取返とりかへさずばなに手柄てがら金鞠かなまりが、たのみのくさりきれて、はらきらんと幾度いくたびか、つかけたれども、こうもなさで相果あひはてなば、愈々いよいよ不忠ふちゆうはのかれずと、洲先すさき行者ぎやうじや祈誓きせいをかけ、此所ここきたれば、姫君ひめぎみには御経おんきやうたからかによみたま御傍おんそばにはかの畜生ちくしやうにくさもにくしとねらひをさだふただまにて打留うちとめたり、姫君ひめぎみはいづくにおはす、伏姫ふせひめさま姫君ひめぎみさまと、よべこたへ山彦やまびこの、こだまひびみづおとこれ不思議ふしぎ両人りやうにんが、さがす岩屋いはやかたはらには、八房やつふさたふれし死骸しがいうちとすかせばこはいかに、打伏うちふしたま伏君ふせぎみの、姿すがたおどろ大助だいすけが、むね早鐘はやがね狂乱きやうらん、チエヽ口惜くちをしやな、畜生奴ちくしやうめ打放うちはなしたる鉄砲てつぱうに、手強てづよ仕込しこみ玉薬たまぐすりあまつよくし姫君ひめぎみに、おはせしか残念ざんねんやと、あまりのこと茫然ばうぜんと、あきはてたるばかりなり

「お使いを仕損じた私ゆえ、ひとつの功を立てた上でお詫びをと存じたところ、噂に聞いた富山の有様。あの畜生を撃ち殺し、姫君のお供をして再び帰参をと、この山へ忍んで夜ごと登りましたが八房に出会わず。さては畜生、山を移ったか。姫君を取り返さずば何を手柄に——金鞠の頼みの鎖も切れ果て、腹を切ろうと幾度か柄に手をかけましたが、功も立てずに果てればいよいよ不忠の名は逃れられぬと、洲崎の行者へ祈誓をかけ、ここへ来てみれば、姫君は御経を高らかにお読みなさる、お傍にはあの畜生。憎さも憎しと狙いを定め、二つ玉で撃ち留めました。姫君はどこにおいでです。伏姫さま、姫君さま」と呼べど、答えは山彦、谺に響く水の音。これは不思議と二人が探す岩屋のかたわらには八房の斃れた亡骸。内を透かせば——これはいかに、打ち伏しなさる伏姫の姿。驚く大助の胸は早鐘、気は狂乱。「ちえ、口惜しやな。畜生めを撃ち放した鉄砲に、強く仕込んだ玉薬が強すぎて、姫君に手を負わせたか。残念や」と、あまりのことに茫然と、呆れ果てるばかりである。

義実よしざねこうたちよりたまひ、急所きふしよはよけてかすきず、それと用意ようい印籠いんろうを、差出さしだたまへば、大助だいすけ伏姫ふせひめ抱起だきおこし、気付きつけふくませみみくち伏姫ふせひめさま姫君ひめぎみさまいのうと、こゑかぎりに呼生よびいくれば

義実公は立ち寄りなされ、「急所はよけて擦り疵」と、用意の印籠を差し出しなされば、大助は伏姫を抱き起こし、気付け薬を含ませて耳に口を寄せ、「伏姫さま、姫君さま、いのう」と、声を限りに呼び返せば。

いきふきかへしひらき、ムヽ

息を吹き返して目を開き、「むう。」

ヲヽつきたるか

「おお、気がついたか。」

御気おききましたか

「お気がつかれましたか。」

アヽヽヽヽ父上様ちちうへさまか、そなたは大助だいすけ

「ああ——父上さまか。そなたは大助。」

姫君様ひめぎみさまあさい、御心おこころたしかにおもちあそばせ、大切たいせつ御身おんみうへにく畜生ちくしやうふたつには、こうたてんとふただまにてうちたれど、たまあまりて勿体もつたいなや、姫君ひめぎみまでも、あやまちし、このつみのいかにせん、とがとがかさねしそれがし、せめて冥土めいど申訳まうしわけと、かたなつかをかくれば

「姫君さま、お手傷は浅うございます。お心確かにお持ちあそばせ。大切のお身の上——憎い畜生を討ち、二つには功を立てようと二つ玉で撃ちましたが、玉がそれて勿体なや、姫君にまで過ちを。この身の罪をどうしよう。科に科を重ねたそれがし、せめて冥土で申し訳を」と、刀の柄に手をかければ。

ヤレ大助だいすけはやまるな、それがしがいふことありと押止おしとどめ、如何いか両人りやうにんたしかけ、たはむれ一言ひとことにてかゝる返事へんじ引出ひきいだせしもがあやまり、くやんでかへらぬ因果いんぐわ理屈りくつおもいだせば一昔ひとむかし大助だいすけちち金鞠八郎かなまりはちらう大功たいこうたてながらおんをしやして忠死ちゆうし折柄をりから孤子みなしご大助だいすけをもりて、伏姫ふせひめ娶合めあはせんとこころ約束やくそく年月としつきたちたれども、戦国せんごくならひにて婚姻こんいんいとまなく、其儘そのまま打捨うちすてたり、たれしらねどもわがこころに、ゆるせしむこ大助だいすけなり、八房やつふさうちたるたまあまりてひめ手疵てきず理屈りくつ女敵討めがたきうちしもおなこと

「やれ待て大助、早まるな。それがしに言うことがある」と押しとどめ、「いかに両人、確かに聞け。戯れの一言でかかる返事を引き出したのも身の誤り。悔やんで返らぬ因果の理屈。思い出せばひと昔、大助の父金鞠八郎は大功を立てながら、恩に浴さず忠死した折から、孤児の大助をもり立てて伏姫に娶わせようと心に約束した。年月は経ったが戦国の習いで婚姻の暇なく、そのままに打ち捨てていた。誰も知らぬがわが心に許した聟は大助である。八房を撃った玉がそれて姫が手疵を負ったのも理屈、女敵を討ったのも同じこと」と。

いふよりはや伏姫ふせひめは、用意ようい懐剣くわいけんせずわがはらへ、つかとほれとてる

言うより早く伏姫は、用意の懐剣を抜く手も見せずわが腹へ、柄も通れと突き立てる。

これはとばか義実よしざねこう大助だいすけはしり、ひめ脇腹わきばらしつかとおさへ、コリヤ何故なにゆゑ御生害ごしやうがい狂気きやうきばしめされしか、ただしは拙者せつしや面当つらあてか、チエヽなさけなき御自害ごじがいと、いだきいたはる介抱かいはうに、ひめくるしきいきをつき

「これは」とばかり義実公、大助も走り寄り、姫の脇腹をしっかと押さえ、「こりゃ何ゆえのご生害。ご乱心なされたか、それとも拙者への面当てか。ちえ、情けないご自害」と抱きいたわる介抱に、姫は苦しい息をつき。

父上ちちうへ御咄おんはなしにて、はじめてききたるわがうへねばならぬ因果いんぐわ道理だうり父上ちちうへさま大助だいすけどの、一通ひととほりおききなされてくださりませ、ちち一言ひとこと反古ほごにせじと八房やつふさともなはれ、やまいりしより、法華経ほけきやう読誦どくじゆ他念たねんなく、今日けふまで肌身はだみけがされねども、何時いつしかたゞならぬとなつて、いかなるやまひいぶかるうち、最前さいぜんあやしき草刈童くさかりわらべ未前みぜんしめ不思議ふしぎ言葉ことば胎内たいないいぬ精気せいき自然しぜんとやどるもさだまるごふと、説示ときしめして掻消かきけごと姿すがたうせしは、うたがひなき洲先すさき行者ぎやうじや御告おつげおもへば、おめおめいきいぬうむならば、わがばかりか父上ちちうへまで、末代まつだいまでの御恥辱ごちじよくふたつには大助だいすけどの、ちちこころわがつまと、さだめしひと申訳まうしわけ夫故それゆゑ覚悟かくごこの自害じがいと、かたる、うちにもづる、血汐ちしほたき四苦八苦しくはつくなみだそでふちなして、もいとどあはれなり

「父上のお話で初めて聞いたわが身の上。死なねばならぬ因果の道理を、父上さま、大助どの、ひととおりお聞きなされてくださりませ。父の一言を反古にすまいと八房に伴われてこの山へ入ってから、法華経読誦に他念なく、今日まで肌身は汚されておりませぬが、いつしかただならぬ身となって、いかなる病かといぶかるうち、さきほどの怪しい草刈り童が、まだ来ぬ先のことを示す不思議な言葉——胎内に犬の精気が自然と宿るのも定まる業と説き示して、掻き消すように姿の失せたのは、疑いもなく洲崎の行者のお告げと思えば、おめおめ生きて犬の子を産むなら、わが身ばかりか父上まで末代までのご恥辱。二つには大助どの、父の心にわが夫と定めた人への申し訳。それゆえ覚悟のこの自害」と語る、そのうちにも湧き出る血汐の滝の四苦八苦。涙は袖に淵をなして、見る目もいっそう哀れである。

義実よしざねこうなみだはらひ、ハヽ孝貞かうてい義女ぎぢよともいひつべし、くにためいへためおやためそのすて深山みやまいりながら、畜生ちくしやうけがされず一念いちねんはら宿やどりしをぢ、大助だいすけへの言訳いひわけ切腹せつぷくとはかされたり、これみな玉梓たまづさ悪霊あくりやうなりと、ゆめつげにてくはしくる、その証拠しようこには水晶すゐしやう数珠じゆず最期さいごきはにはもと文字もじにかへるべしと、ほとけつげその念珠ねんじゆ大助だいすけこれへとのたまへば

義実公は涙を払い、「はは、孝貞の義女とも言うべきである。国のため家のため、親のためにその身を捨てて深山に入りながら、畜生に汚されず、一念が腹に宿ったのを恥じ、大助への言い訳に切腹とは出かされた。これはみな玉梓の悪霊であると、夢のお告げで詳しく知った。その証拠には水晶の数珠が、最期の際には元の文字に返るはずと、仏のお告げのその念珠。大助、これへ」とのたまえば。

ハツトこたへて伏姫ふせひめが、くびにかけたる水晶すゐしやうの、念珠ねんじゆとりたてまつ

「はっ」と答えて、伏姫が首にかけた水晶の念珠を取って奉る。

義実よしざねこうはつくづくと、つきにかざしてとつくとながめ、さてこそさてこそ、如是畜生によぜちくしやう文字もじきえもとごとく、仁義礼智じんぎれいち孝貞忠信かうていちゆうしんの、やつッの文字もじとなりたるは、これ悪霊あくりやう解脱げだつのしるし

義実公はつくづくと月にかざしてとくと眺め、「さてこそ、さてこそ。如是畜生の文字は消えて元のごとく、仁義礼智孝貞忠信の八つの文字となったのは、これぞ悪霊解脱のしるし。」

きく伏姫ふせひめかほをあげ、かか不思議ふしぎ御告おつげを、うへからはまよひのくもはれわたりたるこころすずしさ、此世このよおもおくことなし、ほとけつげ物語ものがたり胎内たいない宿やどりし精気せいき水晶すゐしやう数珠じゆず功力くりきと、法華経ほけきやう功徳くどくによつて、やつつの里見さとみいへ忠臣ちゆうしんと、うまかはるとくからは、みづからが一念いちねんかみなりて、やつたま八人はちにん忠臣ちゆうしん子胤こだねとなさん、これたまへと痛手いたでくつせず気丈きぢやう有様ありさま数珠じゆず押揉おしもんで声高こわだか

と聞いて伏姫は顔をあげ、「かかる不思議のお告げを見るからは、迷いの雲も晴れ渡った心の涼しさ。この世に思い置くことはない。仏のお告げと物語、胎内に宿った精気は、水晶の数珠の功力と法華経の功徳によって、八つの子も里見の家の忠臣と生まれ変わると聞くからは、わたくしの一念が神となって、八つの玉を八人の忠臣の子胤としよう。これ見給え」と、痛手にも屈せぬ気丈のありさま。数珠を押し揉んで声高く。

南無神変大菩薩なむじんべんだいぼさつ奇特きどくここたまへと、一心いつしんこらしたる祈念きねん信力しんりき念珠ねんじゆ持添もちそ九寸五分くすんごぶ、きりりきりりと引廻ひきまはす、とき不思議ふしぎ震動しんどうなし、さつかぜ諸共もろとも念珠ねんじゆきれやつだま虚空こくう巻上まきあげ霊々れいれいと、ひかりはなつて飛散とびちりたり、またひきまは疵口きずぐちより、はし血汐ちしほ唐紅色からくれなゐえみえずみ朦朧もうろうと、かげやつつのいぬかたちおなじくそら飛去とびさりける、奇代きたい不思議ふしぎ義実よしざね大助だいすけそらうちまもるばかりなり

「南無神変大菩薩、奇特をここに見せ給え」と、一心を凝らした祈念の信力。念珠を持ち添えた九寸五分を、きりりきりりと引き廻す。時に不思議や震動して、さっと吹き来る風もろとも、念珠は切れて八つの玉、虚空へ巻き上げ霊々と光を放って飛び散った。また引き廻す疵口から走る血汐は唐紅、見えつ隠れつ朦朧と、影は八つの犬の形、同じく空へ飛び去った。世にも稀な不思議に、義実も大助も空を見守るばかりである。

大助だいすけなみだはらひ、それがし武道ぶだうをすて、こうたてざる犬武士いぬざむらひいぬといふふたつにけ、丶大ちゆだいすぐ名乗なのるべしと、もとどりふつと切払きりはらひ、両腰りやうごしとつ投出なげいだし、これよりただちほとけみち諸国しよこく修業しゆぎやう姫君ひめぎみの、後世ごせ追善つゐぜんふたつには、ちりたるたまもちたる勇士ゆうしたづさがして二代にだい忠臣ちゆうしん見付出みつけいだすはこの丶大ちゆだい

大助は涙を払い、「それがしは武道を捨てる。功を立てぬ犬武士——犬という字を二つに分け、丶大とただちに名乗ろう」と、髻をふっつと切り払い、大小を取って投げ出し、「これよりただちに仏の道。諸国修行も、ひとつには姫君の後世の追善、二つには散った玉を持つ勇士を尋ね探して、二代の忠臣を見つけ出すのはこの丶大」と。

いふに義実よしざねをしばたヽき、天晴あつぱれ忠臣ちゆうしんかんる、さはさりながら不愍ふびん最期さいごむすめ伏姫ふせひめ成仏じやうぶつせよとちちがいまはの一言ひとことに、伏姫ふせひめをひらき、アヽうれしや本望ほんまうや、念願ねんぐわん成就じやうじゆうへからは、一時いつときはや西方浄土さいはうじやうど父上ちちうへさまおさらば、大助だいすけさらばも舌強したこはがり、いまぞこの知死期時ちしごどき南無阿弥陀仏なむあみだぶつ丶大坊ちゆだいばうとなふるこゑ諸共もろともに、つるぎをぬけばがつくりと、ちり果敢はかなくなりにけり、義実よしざねこう恩愛おんあいの、血流ちすぢなみだはらはらはら、丶大ちゆだいともにためなみだ一度いちどたきみなぎりて、みづましたる谷川たにがはに、いはほながばかりなり

と言うので義実は目をしばたたき、「あっぱれ忠臣」と感じ入る。「さはさりながら不憫の最期。娘伏姫、成仏せよ」と父の今わの一言に、伏姫は目をひらき、「ああ嬉しや本望や。念願成就の上からは、一時も早く西方浄土へ。父上さま、おさらば。大助、さらば」も舌こわばり、今ぞこの身の最期の時。南無阿弥陀仏と丶大坊の唱える声とともに、剣を抜けばがっくりと、散ってはかなくなったのであった。義実公も恩愛の血筋の涙をはらはらはら、丶大もともにため涙、一度に滝とみなぎって、水かさの増した谷川に巌も流すばかりである。

義実よしざねこうはやうやうと、はてしなみだ押拭おしぬぐひ、これより丶大ちゆだい当国たうごくより、東八あづまはちこく徘徊はいくわいなし、たづねて勇士ゆうしもとめよと、おほせに丶大ちゆだいいさち、おほせにやおよぶべき、いぬ精気せいきうけたるは、とりなほさず八犬士はちけんしたづいだすはあんうち気遣きづかたまふなわがきみと、矢猛心やたけごころ梓弓あづさゆみひけひかるゝ後髪うしろがみればにうく水晶すゐしやうの、たまあざむ白露しらつゆに、くさたもと白膠木ぬるで紅葉もみぢうまれぬさき故郷ふるさとへ、かざにしき色々いろいろや、かり浮世うきよかりかりまくらのこ法華経ほけきやうの、功徳くどくふかやつつのたま八犬伝はつけんでん読本よみほんに、千代ちよつたへて常磐津ときはづの、ふしのこるぞいさましゝ

義実公はようように涙を押しぬぐい、「これより丶大は当国から東八ヶ国を徘徊して、尋ねて勇士を求めよ」との仰せに、丶大は勇み立ち、「仰せに及びましょうか。犬の精気を受けたのは取りも直さず八犬士。尋ね出すのは思いのうち。気遣いなさるなわが君」と、矢猛心の梓弓、引けば引かれる後ろ髪。見れば実に浮かぶ水晶の玉かと見まがう白露に、草の袂も白膠木の紅葉、生まれぬ先の故郷へ飾る錦の色々よ。仮の浮世の仮のまた仮、枕に残る法華経の功徳は深い八つの玉。八犬伝と読本に千代も伝えて、常磐津の節に残るぞ勇ましい。

この曲は常磐津。詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第四編 常磐津集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開し、合方の指示は省いた。

本名題は『八犬義士誉勇猛』。原典は上下二巻に分けて載せるが一曲なのでひと続きにした(上三十一段・下二十六段)。作詞者・作曲者・初演年は原典に記載がない。

曲亭馬琴の読本『南総里見八犬伝』の発端、伏姫と八房の富山の一段による。読本の伏姫は嘉吉より後の長禄・文明ごろの人だが、詞章は「嘉吉二年の春」とする。原典のまま改めていない。

終わりに伏姫が自害して果てる件がある。席によっては扱いに心を配りたい。

「御花園院」は後花園院の当て字。「倫言」は綸言(天子・主君の言葉)の当て字。いずれも原典のまま残した。

「濁世煩悩」からの一段は『平家物語』冒頭の文句を取り込み、続く四季の一段は伏姫の山住まいを春夏秋冬に配した名文として知られる。

「棄恩入無為報恩者」は出家の偈の句。恩を棄てて無為(仏道)に入ることこそ真の報恩であるとする。

「鶴は千歳にして尾らず」以下の童子の弁は、交わらずして孕む先例を挙げたもの。「干将莫耶」は呉の刀工夫婦の名剣の故事。

「如是畜生」の文字が「仁義礼智孝貞忠信」の八文字に返る水晶の数珠、八つの玉が虚空へ飛び散る件は、八犬士それぞれの玉の由来である。

「丶大」は犬の字を丶と大に分けた法号。読本では「ちゅだい」と読む。

「洲先」は洲崎(現・館山市洲崎)の当て字、役の行者を祀る岩屋があった。「富山」は南房総の山。

「はつはり」(つわり)「青潤」「かへし」(山をかへしか)など、今日と異なる言いまわしは原典のまま残した。

次の語は意味の定まらないところで、推測で埋めず原典のまま残した。「七巡りして坂道を」「恩をしやして」「見にうく水晶の」。

流儀・稽古本によって仮名遣いや字句に異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。